Animerica2005年6月号は、鈴木プロデューサーのインタビューを掲載しました。これは2月号に掲載されたインタビューの続きで、2004年9月に鈴木氏がベネチア国際映画祭に出席した際に行われたものです。
Q:
宮崎監督は最後までストーリーを作り上げる前に映画を作り始めることで有名です。「千と千尋」では途中で予定を変更してカオナシをより重要なキャラクターにしました。「ハウル」でも同様の変更はありましたか?
鈴木:「ハウル」では大きな方向転換がありました。ご存知のように、ソフィーは呪いにより老婆に変えられますが、最後には少女に戻らなければなりません。問題は、映画の前半で宮崎さんはソフィーをあまりにも何度も若くしてしまったことです。それで最後はどうするのかという問題になりました。それで宮崎さんはこの問題をどうやって解決するか考えなければならず、そしてエンディングに関して別のアイディアを思いついたのです。
(訳注:記事ではネタバレを避けるためにぼかされていますが、インタビュアーのAndrewによると、鈴木プロデューサーが話した「別のアイディア」とは、ソフィーがハウルと過去で会うというところについてだそうです。)
Q:「ハウル」の舞台は「紅の豚」や「魔女の宅急便」の古いヨーロッパに戻りました。宮崎監督は最初ウェールズを舞台として考えたそうですが、結局はフランスのアルザスを使うことに決めました。なぜそう決めたのですか?
鈴木:実は原作ではハウルは魔法使いではなく、ウェールズに住んでいます。彼はコンピュータゲームで遊んでいるうちに、ゲームの中で魔法の王国のインガリーという世界を創り出します。問題は、これをどうやって映画にするかです。[実際、解釈が分かれる原作のこの部分は、映画では使われていない] それで、物語の舞台をどこにすべきかを考えたとき、ヨーロッパにしたいということはわかっていました。実際「千と千尋」のプロモーションのためにフランスに行ったとき、一日休みがあったんです。それでアルザスに行ったら気に入ったので、舞台にすることにしました。通常は場所を決めたらロケハンに行って、たくさん絵を描いて参考資料を集めなければならないのですが、アルザスではロケハンをフルにしませんでした。映画の舞台はヨーロッパですが、よく見るとイタリアの影響がかなり見られると思いますよ。映画の冒頭ではとてもアルザスらしい街が見えますが、映画が進行するうちにイタリアで見かけるような裏路地が出てきます。宮崎さん自身、イタリアの影響が強いと認めています。
Q:戦争シーンの奇妙な飛行機械はフランスのイラストレーターであり小説家のアルベルト・ロビダに影響を受けています。彼について話してください。
鈴木:ロビダについては、宮崎さんが知ったのはごく最近のことです。彼は19世紀末のフランスのアーティストで、機械時代の最盛期だった当時、ロビダは技術がどのように進歩し続けるか、20世紀にはどのような技術が現れるかを想像しました。ロビダはそうして未来創造図を描き、宮崎さんはそのアイディアを使いました。
Q:ところで、あのレバー操作の自動車は、(宮崎監督が1980年代初めに制作した)TVシリーズ「名探偵ホームズ」に出てくる自動車に似ていませんか?
鈴木:ええ、宮崎さんは過去に使ったいろんな物をこの映画でまた使いました。
Q:最後に、「ハウル」の次のプロジェクトはいつ発表になるかわかりますか?
鈴木:(笑)知りたくないです!
2005年8月20日付Daily
Telegraph紙は、「ハウル」のオーストラリア公開にあわせ、スタジオジブリの訪問レポートを掲載しました。宮崎監督や鈴木プロディーサーのインタビューも含まれています。
(ジブリと宮崎監督の紹介略)
宮崎のデザインによりその舷窓や小塔や船を想起させるスタジオの中では、アニメーター達がジブリのトレードマークである素晴らしい背景を描いていた。机の上にカメやエビを水槽を置いているアニメーター達もいた(新しい企画である短編映画は水中の話である。)壁にはバリ島の影絵人形や大きな鼻の東洋の赤い仮面や「ニモ」や「ベルヴィル・ランデブー」や「ウォレスとグルミット」の絵がかけてあった。宮崎は世捨て人かもしれないが、同時に大変な国際家でもある。「文化が広がると、戻ってくるんです」と後に彼は述べた。「磁器は中国から日本に伝わり、そこからドレスデンに伝わりました。今ではマイセン磁器のコレクターが日本にいます」
日本でアニメーションが発展したのは遅く、第二次世界大戦後のアメリカ軍の進駐と共であった。今では世界中にジブリの専門家がおり、宮崎の前作の「千と千尋」は2003年にアニメーション部門でオスカーを受賞した。
彼の色彩豊かな映像とは異なり、監督はモノクロの姿をしている。グレーの服を着て、白髭を生やし、だらりとした銀髪、驚くほど黒いゲジ眉、そして黒いフレームの眼鏡の奥にはいたずらっぽい目がある。どうしても聞きたい質問があった:あんなにも多くの素晴らしい生き物達を創り出したこの人は、自分をどんな動物にたとえるだろう?彼の答えにより、通訳はあわてて辞書を見るはめになった。助け舟を出そうと、宮崎は通訳のメモ帳をとり、動物になった自分を描いた。それはワラジムシだった。「裏庭で見ることができますよ」と彼は説明した。「攻撃的じゃないし、まったく利己的じゃなくて純粋な生き物です」謙虚なワラジムシはまた、危険を感じると丸くなって固い団子になる。
宮崎はインタビューが嫌いだ。シャイだからかもしれないし、うわべだけの宣伝を嫌っているからかもしれない。多分その両方だろう。しかしだからといって、よそよそしいわけではまったくない。我々とのインタビューのために、宮崎は彼の仕事場であり「豚屋」と呼ぶ木造キャビンに予定の時間より早くやってきた。インタビュー後、薪ストーブとピアノと二つの書斎を結ぶ空中回廊がある広い部屋で、彼は他のスタッフと一緒にお弁当を食べていた。
(「ハウル」の紹介中略)
「ハウル」は結局(ソフィーの)呪いが解けたかどうかについてはあいまいである。「年老いた人々に失礼でしょう」と宮崎は言う。「(映画の終わり方は)かなりの混乱をもたらしましたが、正しかったと思っています。僕は64歳ですが、内部はまだ少年です。それが僕がこの話を選んだ理由かもしれません」
(ジブリ映画の英語吹き替え版では時としてオリジナル版とはかなり違うタイプの有名人の声が使われていることについて)
自分の映画のすべてのコマを自分でチェックするという宮崎に、これらの英語吹き替え版にかかわっているのか聞いてみた。彼の答えはノーで、多分それはそうするよりほかないからだろう。「本当に信用している友人にまかせています」と彼は言う。その友人とは「トイ・ストーリー」の監督で、その作品がしばしば宮崎の作品と比せられるジョン・ラセターである。どちらの監督もそれぞれの国で深く尊敬され、商業的にも成功している。しかし宮崎の映画はもっとつかみにくい。宮崎の映画は終わりがあいまいであることも多く、マニ教的世界観(訳注:善と悪、光と影など二元論的世界観)に抵抗する。彼のキャラクター達は、その形を変え続けるのと同様に内部の本質も変わり成長する。札付きのワルがむしろ良い人だとわかるかもしれないのだ。宮崎はそれをいつものように簡単に片付ける。「ラセターは子供達を導きたい。僕は子供達と一緒に迷子になる」と彼は言う。
(ジブリ美術館の紹介略)
スタジオジブリは20年前、宮崎とプロデューサーの鈴木敏夫と宮崎の同僚のアニメーター高畑勲(訳注:高畑監督はアニメーター出身ではありません)により、徳間書店の資金で設立された。宮崎が選んだその名前は、サハラの熱い風を意味し、アニメーションの世界に変化の風が吹くと知らしめた。「目的は一つ:宮崎さんが作りたい映画が作れるスタジオを作ることでした」と、裸足でいすの上にあぐらをかいてタバコをすいながら鈴木は言った。「作りたい話がある限りは続けます。でも会社を大きくする気はまったくありません」ジブリ映画の世界的な成功にもかかわらず、会社は資金面では今でも不安にさらされていることを鈴木は認めた。新作の長編映画はカタツムリほどののろい歩みで形をとりつつあり、12月まで発表もされない。その間、宮崎は美術館でのみ上映される三本の短編映画を製作し、また美術館の新しい展示をデザインしている。「宮崎さんは仕事に時間がかかる人なんです」と鈴木はあきらめたような調子で言う。「スタジオの経営者としては、今僕は難しい立場にいます」
(中略)
関連商品も厳しく制限されている。プラスチック製ハウルがマクドナルドのハッピーセットに登場することはない。「宮崎さんは自分の(作品関連の)製品が捨てられるところを見たくないんです」と鈴木は言う。
将来に関しては不透明である。監督は引退を延期して三本の長編映画を企画しているにもかかわらず、宮崎のレベルに少しでも近い新しい才能は今のところ見当たらない。しかし宮崎は自分自身のことをジブリを統括する天才だとは見なそうとしない。「僕は単なる職人です」と彼は主張する。
私を見送るとき、宮崎は暗くなりつつある空を見上げて、予想されている台風上陸の前に私が無事帰宅できるといいですねと言った。野草や森の精や高い赤松に囲まれて彼の豚屋の中で夢見る宮崎を残し、私はバスに乗って東京都心のありふれた騒音とネオンの中に戻っていった。
9月18日付South China
Morning Post紙は宮崎監督のインタビューを掲載しました。(記事を読むには登録が必要です)
(これまでアカデミー賞やベルリン映画祭の授賞式にも現れなかった宮崎監督がベネチアに来たので皆驚いたという話から)
宮崎は「(ベネチア映画祭ディレクターの)マルコ・ミュラーの熱心さのため」来ざるを得なかったとプレスルーム一杯の記者たちに語った。しかし彼は賞というものに対する軽蔑を語った。
「受賞できるかどうか心配しながら座ってるのが嫌いなんです」と宮崎は言う。「ここでは確かに受賞できるとわかっていたので、来ました」
(中略)
ティム・バートンのストップモーションアニメ映画「Corpse
Bride」のベネチア映画祭での上映において、バートンはこの日本人監督を称賛した。しかし、バートンについて尋ねられた宮崎は彼が誰だか知らないようだった。
宮崎は映画を見ない。彼は彼を取り巻く世界と、ヨーロッパの文学と絵画からインスピレーションを得ている。なんにしろ、8時におきて真夜中過ぎまで働く忙しさでは、たぶん時間がないのだろう。
友人でありコンピュータ3Dアニメーションの先駆者でもあるピクサーのジョン・ラセターがどうやったらあんなにもたくさんのことができるのかわからないと宮崎は言う。1990年代に「リトル・ニモ」に参加した時ロサンジェルスで二人は出会い、以来「千と千尋」の英語版を公開するようにディズニーにプレッシャーをかけるなど、ラセターは宮崎の国際的な露出を促進する助けとなってきた。
「ジョン・ラセターは素晴らしい仕事をしていると思います」と宮崎は言う。「でも、働きすぎで彼の健康が心配です。ベネチアには妻を連れてきましたが、僕は普段は仕事中毒です。僕はただ仕事、仕事、仕事で、家や子供のことは何もやりません。妻にやらせてます。ジョン・ラセターも仕事で忙しいのに、良き父、良き夫です。コミュニティーに貢献し、趣味にもたくさん時間を割いています。つまり、僕がやってることの五倍ですよ」
ラセターと宮崎はアニメーションのスタイルに関しては一致しないことで同意している。「彼に2Dをやれとは言わないし、彼も僕に3Dをやれとは言わない」と宮崎は言う。「僕らはそれぞれ自分の領域があって、それはいいことです」
(中略)
今や絶滅しかけている昔ながらの職人の一人として、宮崎はペンと紙で描くのが好きだ。「鉛筆は単に一本の線を引くためにあるのではありません」と宮崎は言う。「まるで自分の中に存在する線を探して見つけ出すようなものです。でも自身の中の潜在意識を引き出すアニメータは今では少なくなっています。若いアニメーター達はバーチャルリアリティを見すぎて、それに屈しています。だから僕が作るようなアニメーションは、今ではとても年寄りの産業です」
宮崎の伝統主義者的感覚は彼のストーリーの選択にも表れている。その多くはヨーロッパのおとぎ話に基づき、19世紀末に設定されている。
緩やかに続く緑の丘や花で一杯の風景といった理想化されたヨーロッパが子供のころ戦争で破壊された日本からの逃避手段だったと、宮崎はNew
Yorkerの最近の記事で明かしている。「ハイジをリメークして、ポカホンタスをリメークして、ハウルの動く城をリメークしました。これらはみなヨーロッパが舞台で、ヨーロッパの音楽や芸術や文化の伝統に影響を受けています」と宮崎は言う。「日本では子供のころロシアやフランスや英国の小説を読むので、さまざまな国の影響が混じっています」
(訳注:宮崎監督は「ポカホンタス」は作っていませんし、ヨーロッパが舞台の話でもないので(正確に言えばポカホンタスが英国に行く話はあるのですが)、インタビュアーが何かと間違えたのではないでしょうか)
宮崎は一つの場所だけにはこだわらない。ダイアナ・ウィン・ジョーンズの小説に基づく「ハウルの動く城」は、元々はウェールズが舞台だったかもしれないが、映画では典型的な宮崎の霊妙な風景となっている。
「ウェールズは何度か訪れましたが、この映画の舞台にはしたくありませんでした」と宮崎は言う。「アルザスの建物やカザフスタンの風景により魅かれました。これはおとぎ話なのでなんでもごっちゃにできます。それが僕が映画の舞台を創るやり方です。今朝はリド(映画祭が開催される島)を歩いて、次の映画に使えるようなものを探しました」
何か見つかっただろうか?「ここには素晴らしい路地がありますね」と宮崎は言う。
日本での地位にもかかわらず、宮崎は普通の生活を送っていると言う。「普通の初老の男の生活を送っていますよ」と宮崎は言う。「毎日食料品を買いに行って、地元の喫茶店でコーヒーを飲みます」しかし宮崎は他のアニメーターの作品や映画やテレビは見ない。自分の作品に関しての本やファンサイトについてはとても漠然と知っているのみである。
「まず僕はインターネットをやりません」と宮崎は言う。「だから誰にも答えられません。Eメールをやらないので毎日平和に暮らせます」
彼は日本の小さな漁港のそばにあるさびれた家に平和を見出している。「海に面していて、明かりを消すと他の人が暗闇の中からやってくるような気がするんです」
日本の話を映画にしたいが日本の現代化によりそれは難しいと宮崎は言う。「なにもかもとてもあいまいになって、本当の日本の話を見つけにくくなっています。僕はまだそのプロジェクトに取り組んでいて、まだ自分が本当に日本を描いた作品を作った気がしません。僕の母親が話してくれた日本の古い農家についての話を映画化したいと思っています」
「また、映画化できるような日本の文学はたくさんありますが、それらは人々の苦しみだけを描いて喜びや幸せは描いていません」宮崎はバランスの取れた話を作りたいし、人や動物、特に豚が好きだという。第二次世界大戦中のイタリアのパイロット豚の話である「紅の豚」は先週ベネチアで上映された。
(念のため訳注:「紅の豚」は第二次世界大戦前の話です)
彼の作品の特徴の一つに、キャラクターが興奮すると髪の毛が逆立つということがある。「日本では『怒髪天を衝く』という表現があります」と宮崎は言う。「感情や反応が髪の先に表れると僕は信じています。体の一部ですから」
また、宮崎の映画の多くは女性が主人公である。「女性が好きなんです」臆面もせずに宮崎は言う。「でもあまり多くを語りたくありません−基本的に女性は謎だと思うんです」
東京にあるジブリ美術館でのみ上映される三本の短編アニメーションに宮崎は現在取り組んでいるという。それらの制作には一年かかる。宮崎はこうした作品が好きなのだが、「プロデューサーは本当にお金のことを心配している」ため、長編映画も作らなければならない。
短編の一本は水クモのラブストーリーである。「クモは本当にお尻で呼吸するんです」くすくす笑いをとめられずに宮崎は言う。「水面に上がってくると、クモは空気の泡をくっつけて、アクアラングのようにして水面下にもぐっていきます。水面下にすむクモに関する漫画を見たのが記憶にこびりついて、それが映画になりました」
2005年9月20日付Financial
Times紙は、Nigel Andrewsによる宮崎監督のインタビューを掲載しました。
ベネチア映画祭の最終日の午後、サラグランデ劇場で何度スタンディング・オベーションがおこったかわからない。三度?四度?ギネスブックに電話しようかと思ったほどだ。どの映画祭においても、一度にこれほど賛美された、というかもてはやされた(訳注:原文ではlionisedなので、金獅子とかけています)監督がいるだろうか?
(中略。「ハウル」での空中戦のシーンなどの説明)
危険なシーンも含むこれらのシーンは、第二次世界大戦中に飛行機の部品会社を経営していたという父親への宮崎の感情の表現だろうか?「まったく関係ありません」まるで以前にもこの質問を受け流したことがあるかのように監督は言った。「戦闘機を出したのはそれが破壊やモダニズムのシンボルだからです」
宮崎がインタビューを受けるのはミケランジェロがキュービズムの絵を描くのと同じぐらい珍しい。しかしどういうわけか私はベネチアのデ・バンホテルでのインタビューの機会を得た。(私が「千と千尋」に6つ中5つ星を与えたと誰かが言ったのだろうか?)「ベニスに死す」的な環境の中で、枝からこちらを優しく見ている神々しいふくろうに似た、叔父さんのような白髪のアーティストに私はアニメーションの命について尋ねた。「ハウル」に命、あるいは怒りを注ぎ込んだのは、明らかにイラク戦争である。
「この映画に取り掛かり始めた頃、戦争が起こりました。だからその影響は大きいです。」子供向けファンタジーから残酷な風刺へと、時には驚くようなムードチェンジはこれで説明がつく。しかし宮崎は話題を環境破壊に拡げ、このような両極はつながっているのだと主張する。
「僕達が自然、環境、この惑星との繋がりを繰り返し失ってしまうのは、モダニズムの宿命です。でも僕らはそれを取り戻そうと何度も努力する。循環してるようなもんです。この世に生まれてきたとき、子供達の心と魂の奥深くには自然が既に宿っています。だから僕は彼らの魂に触れるような作品が作りたいんです」
宮崎に影響を与えたものについて聞いてみると、宮崎の作品に見られる無垢さと黙示録の混合についてまた新たなヒントが得られた。彼に影響を与えたのは、ソビエトのアニメーション、プロには高評価を得ているがあまり知られていないフランスの映画(ポール・グリモーの「やぶにらみの暴君」)、そして意義深いことに、「動物農場」である。(動物農場の作者の)ジョージ・オーウェル同様、宮崎も改心した元マルクス主義者である。ある日宮崎は未来を、というか未来に対する近現代の醜い実験を見て、それがうまく行っていないことをさとった。それで彼は独自の未来と過去を創りはじめたのだ。
空論的政治への幻滅は重要な点であると私は思う。教訓的や規範的なものを嫌うゆえに、宮崎は彼の作品を寓話的にそのまま解釈することを認めないのかもしれない。例えば、打ち捨てられたテーマパークが出てくる「千と千尋」は日本の産業の衰退についての映画である、といったようなたびたび出てくる議論のことである。「地球の衰退や汚染については気がかりですが、日本を描いているつもりはありません。でもこうしたことは現代に生きる子供達にとっては既に現実なんです。」(ちなみに、私は「千と千尋」に関するある直接的な解釈について聞かないわけにはいかなかった。神達がやってくる風呂屋を経営している、きっちり髪をセットしたあの堂々とした湯婆婆は、マーガレット・サッチャーにインスパイアされたものではないですか?宮崎は爆笑した。「日本にも強い、鋼のような髪をした女性はいますよ!」つまり否定しなかったということだ。)
(中略:宮崎映画のヒロインの小さな女の子がしばしばアリスのように見えることについて)
「ルイス・キャロスは好きですから、僕の映画が影響を受けているのは確かでしょう。僕は多くのアーティストに影響を受けてますし、それらの影響は僕の作品に出ています。でもええ、僕はキャロルが好きです」
私がキャロルにこだわる理由は、うさぎ穴やお茶会やキノコといったありふれたものを夢のようなとても素晴らしいものに変えてしまえる才能を持つファンタジーの書き手やアーティストは、宮崎以前にはキャロルしかいなかったと思うからだ。「千と千尋」の冒頭で、新しい家を探している家族の前に、狭いかび臭いトンネルが唯一の通路である大きな黒い壁が不吉な障害として立ちふさがる。このシーンにはまったく引き込まれる。しかし宮崎はそれは偶然だと主張する。
「もっと手の込んだ、もっといいアイディアだと最初思ったものがあったんですよ。でもそれは長くて費用も高くつきすぎました。それでそのシーンの絵コンテはみんなゴミ箱に捨てて、もっと単純なものにしたんですが、それがうまくいきました」
宮崎は夢に着想を得ることはあるのだろうか?「夢に頼ることはありません。でもインスピレーションも尽きて困っているとき、僕の脳はなにか夢のようなものを生み出すようです。でもそれは危険です。脳の下にある小さな箱の蓋を一度あけたら、閉めるのは難しいんです!」
脳はそれ自身意思を持つ。10年前、それは宮崎に彼の最初の傑作である「もののけ姫」を作るよう強制した。「作りたくなかったんですが、作らなければならないという感じでした。もしこれに取り組まなかったら、観客の子供達は二度と僕を信用してくれないだろう、と自分の心が言うんです。とても苦しみました」宮崎は2年間、まったく休みなく働いたといわれている。「でもその苦しみが作品に価値を与える鍵のようです。エンタテイメントに関する常識はすべて投げ捨てました。誰もこの映画を見にこないし、それでスタジオ・ジブリも終わりだと確信していました。そして多くの大人がわけがわからないと言う一方で、子供達はすぐに「とても簡単だよ」と言いました」
(中略:漫画が子供に与える影響について)
「僕は漫画は人々の魂の奥底に達することのできる、奥深い欲望や複雑な感情を表現するにはとても優れたメディアだと思います。漫画は感情を伝えるのは得意なんです。しかし漫画は時間と空間をゆがめるため、時空間を正しく表現して、現実を描くことからはかなり隔たっています。漫画を通して世界を見る人は、世界をちゃんと正確に見ていません。日本だけでなく世界中で、今日多くの若者が軽い浅い生活を送っているような気がします」
宮崎が情熱的な伝統主義者だということは彼をあまり深く知らなくてもすぐわかる。ラダイト(訳注:労働者による機械打ちこわし運動のこと。過激な反進歩主義者的意味)ですらあると言える。私が感想を聞いた「シュレック」のような西洋のアニメーション映画に対するコメントは避けながらも(「アニメーション映画は見ないので、世界のアニメーションがどうなっているか知りません」)、宮崎は精力的に彼の愛する2Dアニメーションに味方する。
「(2Dアニメーションは)まだ終わってません。生き続けます。うちのスタッフは僕同様老いて来ています。僕らはかなり年をとりました(笑)。でも僕は心配していません」
コンピュータに関しては:「コンピュータを使うことにより、さらに仕事が増えて時間とお金がもっとかかるようになりました。そしてペンと絵筆を使うアーティストとモニターの前に座っているアーティストの間には、コミュニケーションの問題がかなりあります。ジブリでは平和が保てるように僕達は自制していますが、不安定な状況になりかねません。でも手作業とコンピュータによる作業の正しいバランスを保つことはとても重要なことです。コンピュータを使用しながらも2D映画だと言える、このバランスを今では学びました」
我々のような外部者は、それをもっと良く言う。豊かな、驚異的な想像力から生まれた作品。子供と大人の比類なき融合。そして人々のもっとも深い喜びや恐れや夢や情熱に触れることができる実行者がいる限り、どんなに古い表現形態も時代遅れになることはないという証明である。
2005年9月14日付Gardian紙は、Xan
Brooksによる宮崎監督のベネチアでのインタビューを掲載しました。
字の色が変わっているところは記事をそのまま訳した部分、それ以外は記事を要約したものです。
滞在中のベネチアのホテルの庭で、宮崎駿はかなりのセレブであることがわかった。彼は飾り書きでサインをし、ずらりと並んだカメラマンの前で堂々とポーズをとり、トイレへ行くほんのちょっとの間休息を取っただけだった。「あなたはアニメの神様と呼ばれていますが」宮崎の去っていく背中に向けてイタリア人記者が叫んだ。「神であるのはどういう気分ですか?」トイレへ行く宮崎は明らかにたじろいでいた。
「ハウル」の原作者であるダイアナ・ウィン・ジョーンズの出身地であるウェールズについて、宮崎監督は1984年に最初にウェールズを訪れた際に鉱夫のストライキを目撃した経験を話し、彼らを尊敬すると語った。
「日本の炭鉱夫同様、彼らが生活を守るために闘ったありさまを尊敬しました。僕の世代の多くは、炭鉱夫を闘う男達という絶滅種のシンボルとして見ています」
炭鉱夫同様、宮崎監督が得意とする手描きアニメーションも絶滅しかかっていることについては、
「(手描きアニメーションが)消えつつあるとすれば、どうすることも出来ません。文明というのは動き続けるものです。フレスコ画家や風景画家は今みんなどこで何をしているでしょうか?世界は変わり続けるんです」
「もののけ姫」を配給したミラマックスのワインスタイン社長に「ノーカット」と書かれた日本刀を渡したという噂について、
宮崎はうれしそうに声高に笑い、「それは(鈴木)プロデューサーです。でも実際ニューヨークでワインスタインに会った時は、カットしろとうるさく要求されました。」宮崎は微笑んだ。「勝ちましたけど」
「ハウル」の英語吹き替え版で荒地の魔女を演じたローレン・バコールについて、
日本の俳優にはない何かを役にもたらすことのできる「素晴らしい女性」だと宮崎は言う。「日本の女性声優はみなとてもコケティッシュで男性の注目を欲しているような声です。欲しかったのはそういう声ではありません」
CGアニメーションについて、
「実際のところ、CGIは人間の手と同等かそれ以上のことすらできる可能性があると思います」と宮崎は言う。「しかし僕はもういまさら試せません」
ニューオリンズの台風被害について、同じようなことは東京でもおこると宮崎監督は主張した。
「僕はとても悲観的なんです」と宮崎は言う。「でも、例えばスタッフの一人に子供が生まれたら、その子供の幸せな未来を祈らずにはいられません。その子に「生まれてくるべきじゃなかった」なんて言えないでしょう。それでも僕は世界が悪い方向に向かっているとわかっています。だからこうした矛盾した考えを持って、どんな映画を作るべきだろうかと考えるんです」
それが宮崎が子供の映画を作る理由かもしれない。「そうですね。子供達の魂はその前の世代からの歴史的記憶を引き継いでいると信じています。でも大きくなるにつれて、その記憶は深く沈んでいってしまう。僕はその(深く沈んだ記憶の)レベルにまで降りていく映画を作らなければと感じています。もしそれができたら幸せに死ねますね」
そういう映画を作ることができたのかと聞くと、宮崎は笑って首を振った。また、宮崎は映画は善のための力となることができるとも考えていないという。「映画はそのような力を持っていません」と彼は憂鬱そうに言った。「他国に対抗するための愛国心を高揚させるとか、暴力的な攻撃性につけいるとか、そういう影響力ぐらいしか映画にはありません」
しかしそれから、どういうわけか宮崎のムードは明るくなった。陽光のせいか、タバコのせいか、それともインタビューがほとんど終わりかけていたせいかもしれない。「もちろん」宮崎はやわらいだ。「もし我々が魂のレベルに触れることができれば、もし人生と世界は生きるに値すると言う事ができれば、何か良いものが生まれるかもしれません」宮崎は肩をすくめた。「僕の映画がしているのはそういうことなのかもしれません。映画は子供に対する僕の祝福なんです」
2005年6月24日付エンタテイメント・ウィークリー誌は、宮崎監督のインタビューを掲載しました。
EW:「魔女の宅急便」や「となりのトトロ」のようなより子供向けの映画は米国でもビデオ発売されヒットしていますが、「もののけ姫」や「風の谷のナウシカ」のような映画はあまりにも大人向けでアジア文化に深く根ざしているため、アメリカ人にとってはわかりにくいですが。
宮:自分の映画が米国で配給されていることが信じられません。日本人だってわからないと言っているのに!観客によっては理解できない部分が「ハウルの動く城」の中にあることは自分でもよくわかっています。ドアを開くとなぜ違う所へ行けるのか?それは魔法ですよ。僕は不必要な説明はしません。それを必要とする人は僕の映画は好きじゃないでしょう。それはそういうものだからしょうがないです。
EW:子供たちの生活に「バーチャルな経験」が多すぎることが気に入らないと言ったことがありますが。
宮:コンピューターが我々の生活を乗っ取ってある種の経験が出来なくなってしまったことを考えると悲しいですね。(カルシファーを作画しているとき)、薪が燃えるのを見たことがないというスタッフがいたんですよ。だから見に行って来い、って。日常生活から(そういう経験は)消えてしまったんですよ。日本のお風呂は昔は薪を燃やしてたんです。今ではボタンを押すだけです。経験をすることなくアニメーターになれるとは僕は思いません。
EW:少なくとも長編映画では、米国では2Dアニメーションは死んでしまったように思えます。何が起こったんでしょう?
宮:日本でも同じような壁にぶつかっています…ディズニーから2Dアニメーションが消えたのは、彼らがつまらない映画を作ったからだと思います。作られ方において、ディズニーアニメは保守的になりすぎました。残念です。2く共存できると思ったのに。
Dと3Dは仲良
EW:最終的にはCGにより2Dアニメはなくなってしまうのでしょうか?
宮:実際にはそれほど心配していません。僕は完全に諦めはしませんね。時々、変ったものに投資しようという変な金持ちが現れるんです。そしてガレージの隅で自分の楽しみのために(アニメを作る)人たちがいる。そして僕は大企業よりもガレージの隅にいる人たちのほうに興味があるんです。
米国のアニメ雑誌Animerica2月号は、「ナウシカ」等の米国でのDVD発売を記念して、ジブリに関する特集を組みました。(Animerica公式サイトの見出しでは、まだ「トトロ」がDVD発売されることになっていますが、これは間違いです)
記事にはAndrew Osmondによる鈴木プロデューサーのインタビュー@ベネチア映画祭が含まれています。
Q:宮崎監督は特定の観客のために映画を作るとよく言っています。例えば千と千尋では友人の娘さんの話に基づいているとか。「ハウルの動く城」は誰のために作ったのですか?
鈴木:彼の奥さんです。宮崎さんは若い頃恋に落ちて、そして結婚したんですが、その後仕事中毒になってしまい、ずっと働きづめでした。そして自分が奥さんのことを忘れてしまっており、奥さんは年をとっていたということにある日気がついたというわけです。
Q:宮崎監督と奥さんは二人とも1960年代、東映動画のアニメーターだったんですよね。
鈴木:そのとおりです。実際奥さんは素晴らしいアニメーターで、宮崎さんより優秀なくらいでした。彼と結婚したために仕事をやめざるを得なかったんです。つまり日本は偉大なアニメーターを一人失ったというわけですよ!
Q:「ハウル」は宮崎映画としては珍しく他の作家の小説に基づいています。そのことによって宮崎監督の創作プロセスは違ったものになりましたか?
鈴木:いいえ。小説に基づいているからといって創作プロセスに違いが出たとは全く思いません。宮崎さんが他人の作品を映画化する場合、(その作品には)いつもなにか宮崎さんが好きなところがあるんです。通常それは舞台設定なんですが。「ハウル」の場合、宮崎さんが気に入ったのは、動く城と、魔法で老女に変えられてしまう18歳の少女という主人公でした。それが本当に気に入ったところです。ストーリーに関しては、映画をご覧になればわかるとおり、宮崎さんはかなり自由に変えています。念のため、宮崎さんは著者が気を悪くしないようにしたいと、ダイアナ・ウィン・ジョーンズに大丈夫かどうか尋ねました。(原作の改変は)契約に盛り込まれていたので、ジョーンズさんは何が起こるかすでに知っていました。
Q:映画を通して、ソフィーとハウルの関係性は変わります。ロマンチックな時もあれば、母と息子のような時もある。
鈴木:そのコメントは大変正しくて正確ですね。でもそれは意図的ではなく、ただそうなってしまったんです。ソフィーというキャラクターは、90歳に変えられてしまうところから始まって、映画が進むにつれてだんだん若くなっていくことに、宮崎さんは気がついたんです。ソフィーはおばあさんとして始まって、それから若くなって母親になり、それからまた若くなって妻の役割を果たし始める。つまり女性が年齢を重ねることによる変化と移行がすべてここにはある。映画を作っている間にそのことに気がついて、宮崎さんは大変驚いていました。
Q:ハウルというキャラクターについては、宮崎監督はどう思ったんですか?
鈴木:原作では、ハウルは「ハートのない」少年でした。彼は表面的にはとてもハンサムで派手な人間ですが、内面的にはなにもない人間です。ハウルというキャラクターに宮崎さんをひきつけたのはまさにそこでした。話の中で彼は青年になります。映画では、宮崎さんは欠けていた中身というか人格を若いハウルに与えたかったんです。それが宮崎さんがハウルをああいうキャラクターにした理由です。また、宮崎さんはハウルから多くの感情を感じました。ハウルが自分の一部のように感じたんです。
New Yorker誌1月17日号は、「The Auteur of Anime(アニメの映画作家)」と題する宮崎監督に関する12ページの記事を掲載しました。ジブリ美術館やジブリのこれまでの作品、宮崎監督の生い立ちまでがかなり詳細に紹介されています。また、ピクサーのジョン・ラセターがいかに宮崎監督と彼の映画を尊敬しているかを語っています。
記事はオンラインでは読めませんが、この記事を書いた記者、マーガレット・タルボットへのインタビューがオンラインで読めます。

日本では漫画とアニメが人気で、幅広いジャンルの作品が作られていることを説明した後で、
宮崎はこうした商業主義からは距離を置いている。彼は今の日本のアニメーションがあまり好きではない。「アニメーターたちは年をとりすぎている」と彼は私に語った。「アニメーションはかつては若い人のためのものだった。今では40代の人間に支えられている」最近では、映画を見るならばドキュメンタリーを、特に「単に別の文明の別の人々を見せようとするシンプルなもの」を好むと宮崎は言った。「それらにしても偏向はありますが、でも僕は(ドキュメンタリーが)好きです」
(宮崎監督の生い立ち中略)
「祖父は裕福で、人生を楽しむことを知っている人でした」と、宮崎の二人の息子の一人、宮崎吾朗は語った。去年の夏、彼が館長をしているジブリ美術館で、私は彼をインタビューした。「レストランや映画に行くことが好きで、楽しむのが好きな人でした。祖母は大変知的な人で、外出にはあまり興味がありませんでした。彼女ははっきりした意見を持っている人で、お金を使うのは嫌いでした。彼女は宮崎に大きな影響を与えました。若い頃、色んな質問―思想的なこと―を宮崎が相談できる相手は母親でした。4人の息子のうち、彼が一番母親と親密でした」
宮崎の友人である鈴木はもっと直截である。「彼はマザコンでした」と鈴木は言った。宮崎の映画にいつも老女が登場し、それがしばしば辛らつなキャラクターであるのは、監督の母親へのトリビュートであると鈴木は考えている。「彼が小さい頃、母親は病気で、4人の兄弟は交代で家事を手伝っていました。でも彼が一番母親を愛していたんです」(映画の元気なおばあちゃんたち同様、宮崎の母親は老年まで生きて周りを驚かせた。)
宮崎の両親はどちらも芸術的ではなかった。「祖父は絵を買ってお客に見せびらかすのが好きでした」と宮崎吾朗は言った。「しかし祖父が芸術を理解していたかどうかはわかりません。宮崎の才能がどこから来たかは謎です。宮崎は兄弟に対して一種のコンプレックスを抱いていて、それがアニメーションで成功しようという強い動機になりました。兄弟たちは父親のほうに影響を受けて、ビジネスの世界に入りました。けれど宮崎にとって成功は容易ではありませんでした。彼は器用ではなく、本当に努力しなくてはなりませんでした」
(高校生のとき「白蛇伝」を見たこと、東映動画入社後のキャリアなど中略)
宮崎は仕事中毒で、(パンダコパンダ制作)当時もその傾向はフルに現れていた。「僕が小さい頃、彼は夜中の2時に帰ってきて朝は8時に起きて、一年中TVシリーズをやっていました」と宮崎吾朗は回想した。「たまにしか会えませんでした。「よし、家にいるな」とチェックするためだけに毎朝父の部屋を覗いて、眠っている父を見ていました」ジブリ美術館のために、三十代前半になって初めて父親と一緒に仕事をし始めて、吾朗は「家にいない父親であったがゆえに、父の創作プロセスをよく理解した」と感じたという。「子供の頃、父を研究しました。彼についてもっとよく知るために、僕は彼の映画を熱心に見ました。彼について書かれたものはすべて読みました。彼の絵を研究しました」残念そうにくすくす笑いながら、彼は付け加えた。「僕は自分のことを宮崎駿の一番の専門家だと思っています」
宮崎について学んだことを宮崎本人に話したことはあるかと吾朗に聞くと、彼は笑って、そうするのは想像できないと言った。彼はむしろ母親と近しく、母親は彼をハイキングや山登りに連れて行って、木や花や鳥の名前を教えてくれた、と彼は言った。しかし、父親が作品の制作を終えるとレストランでうなぎを食べて家族でお祝いしたことを、吾朗は覚えていた。父親におもちゃをねだると、宮崎はその代わりに木の削り方を教えてくれた。吾朗は現在その能力に感謝している。どこにいようとも自分の手で何かを作ることができると感じるからだ。
(「コナン」「カリ城」「ナウシカ」の制作とジブリの設立について中略)
宮崎は(「ナウシカ」制作)プロジェクトに没頭した。「宮崎さんは9時から朝の4時半まで働いてました」と鈴木は言った。「そして休みを取らなかった。彼は50歳になってかなり変わりました―時々は日曜日に休みを取るべきだと悟ったんです。今は午前0時には帰るようになっています」(「僕は長い休みは取りません。そんな時間はありません。僕にとっての休みは昼寝です」と宮崎は私に語った。)
(「ラピュタ」と「魔女の宅急便」の制作について中略)
当時、スタジオを閉めることを宮崎は考えていた。「三本の映画を同じスタッフで制作した後、人間関係がややこしくなりすぎたと彼は感じていました」と鈴木は回想した。結局、スタジオを閉めることは間違いだと宮崎を説得することに鈴木は成功した。(多分鈴木は、宮崎に何かをさせることができる唯一の、でなければ数少ない人間の一人である。「彼は宮崎さんをどう扱うかを知ってます」と高畑は言った。「子供を扱うのと同じだと知ってるんですよ。宮崎さんに何かしてもらいたいとき、その反対のことを言うんです。提案に対してノーというのはわかってますからね」)
インタビューした日、鈴木は黒いジーンズにTシャツを着て、ひっきりなしにタバコを吸っていた。「大望のある若い人たちはとても純粋で、正直です。宮崎さんは僕がそういうタイプではないと知って、そこが気に入ったんです」と彼は言った。
(中略)
「最近宮崎さんが夜僕の部屋にやってきて、二人だけで話したんですが、真面目な顔して「ジブリをどうしようか?若い才能もあまりいないし」って言うんです。「自分はあと10年はやれると思う」って言うから「本当に?あと10年?」って。日本のファンは宮崎さんにアニメを作りつづけてくれって言いますが、僕は彼に引退して欲しいと思っている日本で唯一の人間です」
高畑と宮崎は長年一緒に働いてきたが、近年では別々の道を行っている。高畑は文学や映画理論により興味があり、より知的で、魔法には(宮崎ほど)興味がない。彼の映画は子供向けではなく、「火垂るの墓」は実写映画としても通用する。高畑は69歳だが、黒々とした頭と皺のないハンサムな顔をしている。「宮崎映画では、その映画の世界を全く信じなくてはならない」と高畑は語った。「彼は自分が完全に作り上げた世界に観客が入り込むことを求めるんです。観客は(その世界に)身をゆだねることを求められる」高畑は言葉を切った。「僕は観客にはもうちょっと距離を持ってもらいたいんです。僕と宮崎さんとの関係は今は限られています。彼とは友人ですが、直接一緒に仕事をすることはありません」
(スタジオの説明中略。記者が取材のためスタジオジブリを訪れた日、宮崎監督も偶然スタジオに来ていました。)
その日、宮崎は完成した「ハウルの動く城」を彼の妻とジブリのスタッフに見せたところだった。彼はリラックスムードであり、通訳を通して質問し始めると、答えはじめた。
(中略)
今日が「ハウルの動く城」を見る最後の日だと、宮崎は楽しそうに宣言した。「映画がスタジオを離れたら、自分の映画は二度と観ないんです。その映画にずっと付き合って、どこで間違いを犯したか、よくわかってますから」と彼は語った。「ちょっと縮こまって隠れなくちゃならなくなる。「ああ、そうだ、この間違いは覚えてる、これもだ」って。そういう苦しみを何度も何度も味わう必要はないですよ」そう言いながら、彼はうわついた少し狂気じみた笑い―というかむしろくすくすと、笑った。ともかく、次のプロジェクトをすでに計画していると宮崎は言った。美術館用の短編映画である。「何本か作る予定です。しょうがないでしょ?スタッフを食わせていかなくちゃいけないし」と言って、彼は周りにいる人たちを指し示した。「彼らをみんな食わせなくちゃいけないんですよ」
「ハウルの動く城」のどこに惹きつけられたのか尋ねると、「ソフィーは呪いをかけられ老女にされてしまう。若さを取り戻すことがその後幸せに暮らすことになるなんてのは嘘ですよ。それは言いたくなかった。年をとるのはそんなにも悪いことだというようにしたくなかった。少しの間年寄りになることで、彼女は何かを学び、それが実際に年を取ったとき、彼女をよりよいおばあちゃんにするかもしれない、と考えたんです。とにかく、ソフィーは年をとることでより元気になり、思ったことを口に出せるようになる。恥ずかしがり屋で内気な少女から、はっきりものを言う正直な女性にと変わる。あまりないモチーフだし、おばあさんがスクリーンの中心を占めるなんて大きなリスクです。でも、若いということが幸せを意味すると思うのは幻想です」と宮崎は語った。
宮崎はタバコをふかした。「ソフィーが千尋によく似ているという人もいます。そうかもしれない。でもそれは怖くないんです。繰り返しを避けることにより失うものの方が、繰り返すことにより失うものよりも多いと思うんです。常に斬新なことをしようとする人もいますが、僕は自分が何が欲しいかわかってるし、それをやり続けるつもりです。計算とか知的な説明とかをやる忍耐強さが僕にはもうあまりないんです。時代のせいでしょうね。すべてを知っている人なんていない。何が起こるかわかる人なんていない。だから、賢くなりすぎようとするな、ってのが僕の結論です。なぜそういう風に感じるのか?なぜ落ち込むのか?怒るのか?セラピストにかかったところでそれはわかりませんよ。解決できないんです。それに、どんなトラウマも自分の重要な一部です」
宮崎は手で頭の後ろをなぜた。「この映画で、僕は10年前だったらしなかっただろうことをやりました」と彼は語った。「映画の途中で大きなクライマックスがあって、解決で終わる。古いタイプのストーリーテリングです。ロマンチック」確かに、「ハウルの動く城」では宮崎映画初のキスシーンがあり、さらにはっきりとしたラブストーリーの要素を含んでいる。「千と千尋」のいくつかのシーンにおける哀愁を帯びた美しさや、「トトロ」における感情の繊細さは、「ハウル」にはない。(ケープや肩章のついたジャケットをまとった見栄っ張りで世捨て人の魔法使いの少年であるハウルは、マイケル・ジャクソンを思い起こさせる。)しかしこの映画には、野生の花が咲き乱れるアルプスの風景や面白く気難しい火の悪魔と共に、監督のしっかりとした魔術のセンスがある。そして、生きて息をしてがちゃがちゃいっている城は、宮崎の最も驚嘆すべきデザインである。砲塔やバルコニーが密生した巨大なヤカンのように見える城は、金属の表皮に覆われ、なんと鳥の足で田舎を歩き回ってサイのように移動する。
それは暖かい午後で、窓の外ではセミがやかましく鳴いていた。宮崎は依然生き生きとして見えたが、にもかかわらず彼は暗い世界観を語り始めた。「若者がうらやましいとは思いません」と彼は語った。「彼らは実は自由ではないから」それはどういう意味かと私は彼に尋ねた。「彼らはバーチャルリアリティーで育ってるんです。田舎ならましかっていうとそんなことはない。田舎の子供は都会の子供よりももっと長時間DVDを見てる。僕は山小屋を持ってるんですが、その近くで友人が小さな中学校を運営してるんです。27人の生徒のうち、9人が家で授業を受けています。外を怖がるあまり家から出られないんです」彼は続けた。「一番いいのは、バーチャルリアリティーが消えてしまうことです。僕らが作ってるアニメーションでも、バーチャルな物を作り出しているということはわかってます。「アニメーションを見るな!もう充分バーチャルリアリティには囲まれてるだろう」ってスタッフには言い続けてるんです」
(中略:記者と宮崎監督はジブリの屋上に上り、屋上庭園から豚屋(宮崎監督のアトリエ)や日没を眺めた。)
びっくりするほどの熱意で、宮崎は環境災害の問題について語り始めた。「人口が突然落ち込んで消えてしまうことだってありえるんですよ!」とタバコを宙に振り回しながら、彼は言った。「この問題について最近専門家に聞いたんです。「本当のことを言ってくれ」って。彼によれば、今のような大量消費が続けば、あと50年も持たないそうです。そしたらどこもベネチアのようになる。(訳注:温暖化による海面上昇と地盤沈下でベネチアは水没が心配されている。)もっと短いかも、40年ぐらいかもと僕は思ってます。あと30年は生きたいと思ってるんです。海面が上昇して東京が沈んで、日本テレビタワーが島になるところを見たい。マンハッタンが海面下に沈むところを見たい。人口が急減するところを見たい。そしたらもう誰も買わないから高層マンションもなくなる。そう考えると興奮します。金や欲望―そういったものがみんな崩壊して、あとは野草が支配するんです」
日本のTVネットワークである日本テレビのオフィスタワーを前日訪れたと宮崎は言った。「航空機用の赤い警告灯のところまで、260メートル登ったんですよ。都市全体が見えるんです。それで、ここは呪われてる、もう終わりだ、って思ったんです。あんなにたくさんのビル、あんなにたくさんの小部屋」
そこへ鈴木が加わり、そして高畑がやってきてズボンの足から注意深く大きな黒いアリを取り除きながら、誰にも挨拶せずに座った。最近、アリはとても知的で文字が読めるというフランスの小説を読んでいるのだと高畑は言った。昆虫と彼らの精巧なコミュニケーション方法に関するE.O.ウィルソンの研究について、誰かが言及した。「ところでカエルはどうですか?」と鈴木は宮崎に尋ねた。宮崎は自分の家の池でカエルを飼っているのだと説明した。
「おたまじゃくしが何匹いるか、把握しておこうと思うんだけど、どうすりゃいいんですかね。背中に番号を書いておくわけにもいかないし」
三人の男は、カエルとトンボとセミと、そしてバッタの数が開発のために日本で減少していることについてしばらく話していた。この話題には、三人とも熱が入った。「うちの近くに空き家があるんで、それを買ってそのままにしておきたいんですよ」と宮崎は言った。「野草が生い茂るままにしておこうって。どれだけ伸びるか、その生命力は驚異的ですよ。草は全然刈りたくないんだけど、そうすると剪定バサミを持ったおばあさんたちがやってきて、叱られるんです。その世代が死に絶えるまで待たなくちゃダメですね。それまでは、僕が見たいような草は見られない」
自分自身は園芸家ではないと宮崎は言った。「庭造りはうちの妻の領域です。でも彼女がやると、大虐殺ですよ。虫は邪悪だ、退治しなくちゃ。雑草だって、かわいそうに、引っこ抜いちゃうんですよ」彼は微笑んだ。「エコロジーじゃなくてファシズムですね」日本は新しい形の農業をはじめなければ、と宣言したあと、彼は認めた。「僕はできません。僕は農夫のタイプじゃないんです。だから文句を言うだけ」
近隣の森を買って開発から守るためのナショナルトラスト運動に宮崎が「トトロ」の権利を寄付したことに言及すると、「ああ、大して大きい森じゃないですよ。でも何かをしようとはしてるんです」と宮崎は言った。「それで救われた土地を全部合わせたら、大きいですよ」と高畑が声を上げた。宮崎は肩をすくめた。
日本の環境破壊に対してとても厳しい意見を持っているようなので、日本以外で住みたいところがあるかと聞くと、「いいえ」と彼は答えた。「日本でいいですよ―みんな日本語を話しますからね。僕はアイルランドの田舎が好きです。ダブリンはヤッピー、コンピュータータイプが多すぎる。でも僕は田舎が好きです。イングランドより貧しいですからね」ドイツのポツダム、そしてサンスーシーの古城が好きだと宮崎は言った。「子供のころ見たと感じる場所に出会うときがあるんです。古い街でのある光の加減とか。タルコフスキーの映画もそうなんですが、そういう感覚は常にある。エストニアのある都市を訪れたとき、そういうふうに感じました」旅はあまりリラックスにならないと宮崎は付け加えた。散歩が彼のリラックス法であり、人類は歩くことによってリラックスするようにできていると彼は述べた。彼は「毎日仕事場まで歩いて通いたいんだが、二時間半かかる」ので、そうすると仕事をする時間がなくなってしまうと言った。
この発言により、宮崎は彼がしなければならないもろもろのことを突然思い出したようだった。宮崎は去るためにきびすを返し、鈴木と高畑とそのほかのスタッフはあちこちへと散り始めた。
東京都心へと帰る電車の中で、私は宮崎の映画がいかに優しく人間的であるか、そして宮崎個人がいかに厳しく聞こえたことが多かったかを考えた。この対立を、私は社会批評家のアントニオ・グラムスキが呼ぶ「知性の悲観主義、意志の楽観主義」の例として尊重することに決めた。あるインタビュアーが、宮崎の映画は「人間の善良さへの希望と信念」を表していると、宮崎に言ったことがある。宮崎は実際自分は悲観主義者だと答えた。それから彼は、「僕は自分の悲観主義を子供たちにうつしたいとは思いません。大人は自分の世界に対する見方を子供たちに押し付けるべきでないと、僕は思います。子供たちは自分たち自身の見方を持つことができる充分な能力があるのです」と付け加えた。
中国系アニメ・漫画販売サイトOKComic.netに宮崎監督のインタビューが掲載されています。インタビューは2004年11月に行われたとのことですが、それ以外の詳細についてはわかりません。
以下はインタビューの翻訳ですが、日本語→中国語→英語→日本語と多重に翻訳されているので、正確さはまったく保証できませんし、宮崎監督のオリジナルの発言とはかなり異なってしまっていると思います。その点を留意の上お読みください。
Q:監督としては引退すると何度もおっしゃっていますが、「ハウル」に関しても当初は単にエグゼクティブ・プロデューサーとして関わるつもりだったと聞きました。なぜ気が変わったのですか?
宮:アニメーションの世界を去ろうと何度も考えましたが、自分が本当に好きな作品(原作)をみるたび、自分のやり方でそれを表現したくなります。他の人にその作品(の映画化)をまかせても、あそこはああするべきだ、こうするべきだといつも考えてしまいます。結局自分でやったほうがいいと感じるのです。原作の本来の持ち味を引き出すために、戻ってくるのです。
Q:私の知る限り、過去の作品はプロの声優が吹き替えをしていますが、なぜ今回は木村拓哉を使おうと思ったのですか?
宮:鈴木敏夫プロデューサーの提案です。ハウルはこれまでのアニメーション作品でもっともハンサムなキャラクターだから、日本を代表するハンサムな男性が声優としてふさわしいと、鈴木さんは木村拓哉を推薦し、僕がその人を知っているかどうか試そうとしたんです。鈴木さんは僕が山にこもってテレビなんか見たこともない変な年寄りだと思ってたんですよ。だから木村拓哉なんて聞いた事もないだろうって。それで誰だか知ってると言ったらショックを受けてましたね。
(この70歳を越える老人は小さな子供のように満足げに笑い出した。)
(訳注:宮崎監督はまだ60代前半です)
Q:あなたのどの作品にも人道主義がはっきりと感じられます。「ハウル」においても強い反戦感情がありました。
宮:教育的なイデオロギーやメッセージを意図的に観客に伝えようとはしていません。そんなものが僕の作品の中に本当に存在しているとしたら、自然に出てきているにすぎません。僕がなにかとても深い真実を語っていると多くの人が思っていますが、実際には僕が好きなのはシンプルさなんです。僕らが「ハウル」を作ったのは、戦争や経済危機など、この世界に不幸があまりにも多すぎるからです。この映画を通して、人々が勇気を持ちつづけ、希望が持てるといいと思います。未来の世界はまだ素晴らしく美しい。生き延びて探検する価値のある世界なんです。
Q:ディズニーやドリームワークスのアニメーション映画についてはどう思いますか?
宮:個人的には、ディズニーの初期の作品が好きです。「アメリカのアニメーション」と全てを一くくりにしてしまいますが、実際にはそれらの間には表現方法に大きな違いがあります。ドリームワークスは間違いなく「反伝統的」です。ディズニーに比べて、ドリームワークスはキャラクターの描写とプロットにもっと注意を払っています。スタイリッシュな3Dアニメーションが多く使われ、モダンな雰囲気を与えています。ディズニーのアニメがクラッシックバレエだとすれば、ドリームワークスのアニメはポピュラー音楽のようなものです。
Q:そのほかのアジア諸国のアニメーションについてはどうですか?
宮:中国と台湾のアニメーションが本当に好きです。例えば「チャイニーズゴーストストーリー」は中国の伝統的な美的センスをフルに表現しています。こういったその国独自の空気を持つ作品が好きです。あまりそういう作品がないのが残念ですが。また、韓国の制作者(アニメーター?)はもっともプロ意識が高い人たちです。彼らの注意深く誠実な仕事のやり方は尊敬に値します。落ち葉の一片を描くのにすら教科書を引くのです。彼らのアニメーションに関する理解は独自のものがあり、個性的で深遠です…もし中国、日本、韓国のアニメーターが自分たちの伝統的な芸術のほんの一部でも表すことが出来たら、世界はショックを受けると思うんです。その国独自の伝統的な作品というのが最も魅力的なものなんです。
フランスのアニメ雑誌、Animelandのサイトでは宮崎監督とフランスのアーティスト、メビウスの対談の様子が動画で見られます。対談の翻訳は、「宮崎とメビウス」ページをご覧ください。
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