Howl's Moving Castle〜ハウルの動く城関連記事集〜


フランス語記事集

ベネチア映画祭関連記事

2005年6月24日付エンタテイメント・ウィークリー誌は、宮崎監督のインタビューを掲載しました。

以下はインタビューの翻訳ですが、日本語→英語→日本語と多重に翻訳されているので、ここで宮崎監督の発言とされているものは実際の発言とはかなり異なっている可能性があることにご留意ください。

EW:「魔女の宅急便」や「となりのトトロ」のようなより子供向けの映画は米国でもビデオ発売されヒットしていますが、「もののけ姫」や「風の谷のナウシカ」のような映画はあまりにも大人向けでアジア文化に深く根ざしているため、アメリカ人にとってはわかりにくいですが。

宮:自分の映画が米国で配給されていることが信じられません。日本人だってわからないと言っているのに!観客によっては理解できない部分が「ハウルの動く城」の中にあることは自分でもよくわかっています。ドアを開くとなぜ違う所へ行けるのか?それは魔法ですよ。僕は不必要な説明はしません。それを必要とする人は僕の映画は好きじゃないでしょう。それはそういうものだからしょうがないです。

EW:子供たちの生活に「バーチャルな経験」が多すぎることが気に入らないと言ったことがありますが。

宮:コンピューターが我々の生活を乗っ取ってある種の経験が出来なくなってしまったことを考えると悲しいですね。(カルシファーを作画しているとき)、薪が燃えるのを見たことがないというスタッフがいたんですよ。だから見に行って来い、って。日常生活から(そういう経験は)消えてしまったんですよ。日本のお風呂は昔は薪を燃やしてたんです。今ではボタンを押すだけです。経験をすることなくアニメーターになれるとは僕は思いません。

EW:少なくとも長編映画では、米国では2Dアニメーションは死んでしまったように思えます。何が起こったんでしょう?

宮:日本でも同じような壁にぶつかっています…ディズニーから2Dアニメーションが消えたのは、彼らがつまらない映画を作ったからだと思います。作られ方において、ディズニーアニメは保守的になりすぎました。残念です。2Dと3Dは仲良く共存できると思ったのに。

EW:最終的にはCGにより2Dアニメはなくなってしまうのでしょうか?

宮:実際にはそれほど心配していません。僕は完全に諦めはしませんね。時々、変ったものに投資しようという変な金持ちが現れるんです。そしてガレージの隅で自分の楽しみのために(アニメを作る)人たちがいる。そして僕は大企業よりもガレージの隅にいる人たちのほうに興味があるんです。


6月9日付Rolling Stones誌はPeter Traversによる「ハウル」の批評を掲載しました。Traversは「ハウル」に4つ星中3つ星半を与え、「純正主義者が怒る前に、吹き替え版はピクサーのピート・ドクターの指導のもとに制作され、その結果はまったく素晴らしいと言っておこう」と英語吹き替え版のキャストを好意的に紹介し、以下のように述べています。

しかし素晴らしい声優陣も宮崎がこの映画の中でふんだんに使用した輝くようなイメージには及ばない。ハウルの城にはドアがたくさんあり、それぞれが新しい世界に通じている。宮崎は2001年の「千と千尋」でオスカーを受賞したが、更なる受賞トロフィーのために場所を空けておくべきだ。宮崎が「ハウル」で成し遂げたような、コミカルでドラマチックでロマンチックで夢中になるようなビジョンを表す単語がある:至福である。


6月9日付Chigago Sun-Times紙は、Roger Ebertによる「ハウル」の批評を掲載しました。Ebertは米国でもっとも有名な映画評論家の一人であり、ジブリ映画の熱心なファンとして知られています。

「ハウルの動く城」でほぼ最初に目に入るのは城自体である。(略)私は座席に落ち着き、日本の宮崎駿がまた彼独特のアニメーションマジックを創り出したこと、そして今までで最も創造的なアニメーターが創り出した「千と千尋」「もののけ姫」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」などの宝にこの映画が仲間入りできることを確信していた。

しかしそうはならなかった。この映画には絶え間ない楽しさや独創性があり、確かに魅力があり、見るのは楽しく、宮崎の驚嘆すべきビジュアルがあるが、しかし彼の最近の作品に比べれば失望である。(あらすじ紹介略)

(映画の中のさまざまな出来事)すべては宮崎にしかできないやり方で素晴らしい独創性とディテールに満ちたアニメーションで描かれている。城自体は映画の中のほかの事すべてがかすんでしまいかねないほどである。城がどしんどしんと進むとそのこぶが動くさまや後部の括約筋のような砲塔を見よ。「魔女の宅急便」のキキや「千と千尋」の千尋とは異なり、老若どちらのソフィーもこの世界を理解しているようにもこの世界に住んでいるようにも見えず、ヒロインというより目撃者といった感じだ。変わったキャラクター達が次々と舞台に現れるが、底辺を流れるプロットはますますわかりにくくなり、宮崎映画としては驚くべきことに、我々は意味のない壮観なショーにいらいらしてくる。

この映画をお勧めすることはできないが、それでももしあなたが私のように宮崎を尊敬しているなら、どちらにせよこの映画を見たいと思うこともわかっている。彼の映画が映画としていい出来のときも、そしてとても珍しいことだがそうでないときも、宮崎は1フレームごとに驚嘆の構造を作り上げる巨匠である。(後略)


Newsweek6月20日号はDavid Ansenによる「ハウル」の批評を掲載しました。

最も素晴らしくミステリアスなアニメーション映画、「千と千尋」を見たことがあるのなら、「ハウルの動く城」は絶対見たいと思うはずだ。宮崎駿は魔法を必ず創り出すことができるアーティストの一人(そしてそれができる人は少ない)であるように思われる。(あらすじ紹介略)

あらすじを書くことに挑戦しようとすら思わない。宮崎に特徴的なやりかたで、ストーリーは次から次へと予想もつかない方向へ飛んでいく。(略)善と悪との境界線がいつもはっきりしているハリウッドのファミリーエンタテイメントのルールに宮崎は従わない。彼の美しい手描きの寓話は曖昧さで揺らめく海に浮かんでいる。ハウルは良性なのか悪性なのか?ソフィーが彼女に魔法をかけた当の本人である魔女の面倒を見る羽目になると誰が思っただろう?そしてどちら側がどうなんだという説明なしに戦争に観客を投げ込むなんて大胆なことを、宮崎以外の誰がするだろうか?(この反戦寓話においては、どちらが正しいかなんてことは関係ない。)「ハウルの動く城」には夢の中の論理性がある:すべてのドアの向こうにはいくつも現実があり、次に現れる現実はその前の現実よりももっと驚異的なのだ。


RottenTomateでは、雑誌・新聞などで映画評論家がその映画にいい評価を与えれば「トマト」、悪い評価であれば「腐ったトマト」と分類していますが、2005年6月18日現在91の批評のうち82%にあたる75がよい評価で、10点満点中平均7.4点となっています。特に有名な映画評論家の批評ばかり集めた「Cream of the Crop」では85%の評論家がよい評価を与え、10点満点中平均7.4点となっています。

以下は「Cream of the Crop」で引用された批評の訳です。星の数やABCで評価をしている批評に関しては、それもつけてあります。

トマト(いい評価)

宮崎は多岐に渡るストーリーラインをしっかりとコントロールし、キャラクターの動機の機微を謎解きできるように観客をうまく誘導する。
-- Richard James Havis、Hollywood Reporter紙

宮崎の豊かな映像的イマジネーションにより、映画は目もくらむような驚きに満たされている。
-- David Sterritt, CHRISTIAN SCIENCE MONITOR紙

この映画は有機的で、子供のような驚きで、素晴らしく予測不可能で、騒然とするほど独創的だ。
-- Michael Atkinson, VILLAGE VOICE紙

「千と千尋」のレベルには及ばないかもしれないが、それでも宮崎は抜きん出ている。(4つ星中3つ星)
-- James Berardinelli, REELVIEWS

魔法だ。
-- Jami Bernard, NEW YORK DAILY NEWS紙

ハウルの動く城はティーンの現実からの逃避、古い叙事詩的なロマンスの豊かなファンタジーである。
-- Ty Burr, BOSTON GLOBE紙

宮崎のアートを尊敬するものは、この監督の最高傑作ではないとはいえ、この作品にも楽しめるところを多く見出すであろう。
-- Robert Denerstein, DENVER ROCKY MOUNTAIN NEWS紙

魅惑的な素晴らしいイメージの連続に酔っ払う。(B+)
-- Eleanor Ringel Gillespie, ATLANTA JOURNAL-CONSTITUTION紙

人生の一断面に関する思慮深く素晴らしいたとえ話であり、私達が独立した個人であることの強みと重荷両方に関して語っている。 (5段階評価で4)
-- G. Allen Johnson, SAN FRANCISCO CHRONICLE紙

まだ日本製アニメにはまっていないなら、この映画はいいスタートだ。もし既にベテランファンなら、期待通りのものが得られるだろう。(4つ星中3つ星)
-- Terry Lawson, DETROIT FREE PRESS紙

日本の宮崎駿が再びおくる、素晴らしく美しく面白いアニメーション映画。(4つ星中3つ星)
-- Lou Lumenick, NEW YORK POST紙

我々が数時間の間生きることができるこの映画の中の世界は、まったくの魔法だ。それは二度と立ち去りたくないと願うようなところである。
-- Richard Nilsen, ARIZONA REPUBLIC紙

アニメーションが白い紙と尖らせた鉛筆と自由なイマジネーションで始まる、何物にも負けない表現力を持つものであるとまだ信じたがっているものにとっては、この映画はイメージとアイデアの饗宴である。
-- Geoff Pevere, TORONTO STAR紙

子供のような驚きと洗練された感情と動機を融合し、この映画はたびたび空に舞い上がる。
-- Claudia Puig, USA TODAY紙

フランスの名作児童文学のルドウィッグ・ベメルマンズのイラストに見られる絶妙な気まぐれさが映画全体に見られる。
-- Rex Reed, NEW YORK OBSERVER紙

存命中のもっとも偉大な監督の一人による、びっくりするようなショッキングな次々と移り変わる幻影。
-- Carrie Rickey, PHILADELPHIA INQUIRER紙

気が変になるほど創造的な作品。
-- Richard Roeper, EBERT & ROEPER

アイデアと創造の疲れを知らぬ連射は、この映画を楽しめるものとし、吹き替え版でもオリジナル言語版でも大人と子供を結びつける。
-- David Rooney, VARIETY紙

現在60代半ばの宮崎は、新鮮で説得力のあるやり方で若さと老い、未熟さと賢さを結びつける。一方が他方のあとに来るものであるとしたり、どちらが優れているか争うかわりに、宮崎は双方が平和に共存している様を描いている。(4つ星中4つ星)
-- Jonathan Rosenbaum, CHICAGO READER紙

緻密なディテールで描かれた類型的なシーンの中にひしめいている魚屋や兵士や飛行機同様、精霊も日常生活に一部であることを宮崎の魅惑的な世界の住人は理解している。(A−)
-- Lisa Schwarzbaum, ENTERTAINMENT WEEKLY紙

日本の監督宮崎駿の最新アニメーション大作は、現代映画のもっとも偉大な魔法使いの一人を知るためにふさわしい作品である。
-- A.O. Scott, NEW YORK TIMES紙

まったく魅了されてしまうからそのつもりで。また、実写でもそうでなくても、最近の映画が試そうともしない方法で(観客)を試す映画であるからそのつもりで。(4つ星中4つ星)
-- Gene Seymour, NEWSDAY紙

映像はとても素晴らしく、色彩と超現実的な創造にあふれている。(4つ星中3つ星)
-- Jeff Strickler, MINNEAPOLIS STAR TRIBUNE紙

宮崎が「ハウル」で成し遂げたような、コミカルでドラマチックでロマンチックで夢中になるようなビジョンを表す単語がある:至福である。 (4つ星中3つ星半)
-- Peter Travers, ROLLING STONE紙

宮崎の驚異(を創り出す)才能、魅了を第二の天性としてしまうファンタジー(を創り出す)容易さはとても素晴らしいので、言語の違いなど消えてしまう。
-- Kenneth Turan, LOS ANGELES TIMES紙

あまりにも豊かなディテールと色彩にあふれているので、観客は美しさから痛みを感じるほどだ。(4つ星中3つ星)
-- Bruce Westbrook, HOUSTON CHRONICLE紙

宮崎がアニメーション映画のこれまでで最も優れた作り手の一人であることが(この映画で)立証された。(4つ星中4つ星)
-- Michael Wilmington, CHICAGO TRIBUNE紙

スクリーンを埋め尽くす大胆なイメージにより、これは絶対映画館のスクリーンで味わうべき映画である。(4つ星中3つ星)
-- GLOBE AND MAIL

腐ったトマト(悪い評価)

変わったキャラクター達が次々と舞台に現れるが、底辺を流れるプロットはますますわかりにくくなり、宮崎映画としては驚くべきことに、我々は意味のない壮観なショーにいらいらしてくる。(4つ星中2つ半)
-- Roger Ebert, CHICAGO SUN-TIMES紙

(この映画には)ストーリーがない。というか、ストーリーに力がなく、はっきりした理由もなくストーリーがほとんど不用意にあっちに行ったりこっちに行ったりする。
-- Stephen Hunter, WASHINGTON POST紙

魅力といえば、結局のところハウルの動く城に欠けているのはそれである。それと魂(が欠けている)。
-- Michael O'Sullivan, WASHINGTON POST紙

実写のアドベンチャー映画はしばしばバラバラなストーリーラインと陳腐なキャラクターに邪魔されるが、宮崎氏のアニメ最新作も同様な障害に苦しんでいる。(C+)
-- Philip Wuntch, DALLAS MORNING NEWS紙

(映画は)あまりにもとりとめなく進むので、ディテールはしだいにその魅力を失う。宮崎のストーリーテリングのスタイルは、新しく見つけた表現の力を恐れを知らずに試している息を切らせた子供のそれに似ている。
-- Stephanie Zacharek, SALON.COM


2005年6月5日付LA TIMES紙はJake Forbesによる「ハウル」に関する記事を掲載しました。以下は記事の要約です。

*日本のアニメは米国に多大な影響を与えているが、日本のトップアニメーター宮崎はヨーロッパの風景にインスピレーションを受けており、「ハウル」もその例外ではない。

*本をそのまま映画化することなど宮崎にとっては考えられない。「宮崎映画では宮崎がストーリーテラーだ」と英語版の監督であるピート・ドクターは言う。「アメリカではアニメーション映画の製作はかなりの共同作業だが、宮崎は部屋に閉じこもって描きはじめるだけだ」

*ジョン・ラセターのコメント:「(宮崎映画のように)今まで見たことがないものが見られる映画などめったにない。この人(宮崎監督)はこれまでで最も偉大な人間の一人だ」

*宮崎は素晴らしい映像作家であるだけでなく、良心の人でもある。彼は「ハウル」を自身の世界観に合わせて作り上げた。映画には悪人がおらず、ジブリ映画には常にはっきりとした環境や反戦テーマがある。

*鈴木Pのコメント:「過去についての物語は未来について考える助けになる。我々は作る価値があると信じて映画を作っています」「宮崎さんが朝言ったことは夕方には180度変っている。スタッフはそのことに戸惑うが、違う角度から見ることを覚えれば、全部意味が通るんです」

*英語版の制作について:英語版監督のデンプシーによれば老ソフィー役のジーン・シモンズは本当に役に入り込み、アフレコ中老人のように背中を丸めた姿勢をとっていた。ハウルについては強い威厳のある声が欲しかった。英語版の監督たちは「バットマン」のベールの声をハウルの映像に被せてハウル役を決めた。(デンプシーは以前「バットマン」のマイケル・キートンの声を「紅の豚」の映像に合わせて、キートンを「紅の豚」の英語版に起用することを決めたことがある。)ビリー・クリスタルはアフレコ中いくつかのアドリブを混ぜたが、映画では日本版にかなり忠実である。

*脚本についてデンプシーは「日本の観客は映画が少しミステリアスなままで終わってもそれほど気にしない。アメリカの観客は「あれはなんだったんだ?」と首をひねりながら映画館を後にすることを好まない」と語っている。例えば、英語版の脚本を担当したヒューイット夫妻は映画の中で戦争が起こった理由を説明するために三ヶ所で説明を付け加えることを提案したが、ジブリは一ヶ所だけを承認した。また、登場人物が皆ハウルを愛しているというのは日本版ではとてもさりげなく描かれているが、英語版ではそれがはっきりわかるようにとても気をつけた、と英語版のもう一人の監督であるドクターは語っている。

尚、リンク先で「ハウル」英語版のクリップが見られます。


2005年6月13日付TIME誌は、この夏米国で公開される三本の子供向け映画、「マダガスカル」「シャークボーイ」そして「ハウル」についてのRichard Corlissの記事を掲載しました。「ハウル」については「ストーリーはお伽話の類型にそってはいるが、そのイメージの細部の豊かさには常に驚かされる」とし、「ハウル」は「我々の世界よりももっとずっと華麗な世界への空想の旅の完璧なEチケットだ。この映画は(親子)二つの世代にアピールするために二つに分かれてしまったりはしない。この映画は全ての観客を驚きのあまり口をぽかんと開けた無邪気な子供にしてしまう」としています。


5月1日付Toledo Blade紙のChristopher Bprrelliは、2005年夏の映画ラインナップに関する記事の中で、「見るべき25本の映画」の5番目に「ハウル」をあげました。

長所:彼のブレークスルー(そしてアカデミー賞を受賞した)「千と千尋の神隠し」以来初の宮崎駿の映画。(「千と千尋」)同様、感情を表に出さない混乱した作品であり、また同様に目もくらむようなアクションに満ちている。他にどんな作品が公開されようとも、アカデミーの長編アニメーション部門の候補である。短所:ミニバンに詰め込まれた家族連れをひきつけるには、日本製アニメはまだ(わざとだが)堅すぎる。


映画批評サイトTwitchFilm.comは、「ハウル」を見たToddの感想(2005年2月8日付)を掲載しました。

残念ながら、「ハウルの動く城」は宮崎の過去3作の中でもっとも劣った映画である。というと、映画を酷評しているように聞こえるかもしれないが、まったくそんなことはない。ただ、彼の最近の2作品が映画的名作であった―いや、あるため、それよりは「ハウル」が劣っているというだけのことである。主人公のソフィーが理解しがたいため、「千と千尋の神隠し」や「もののけ姫」に比べて、(私にとって)「ハウル」は劣った映画である。(あらすじ中略)

私が一番引っかかったのは、(荒地の魔女との?)対立シーンの前のソフィーの描写が充分ではなく、変身前のソフィーというキャラクターがよくわからないことである。これがストーリー展開上の欠陥(もしくは翻訳によって失われた文化的意味)につながっている。ソフィーは身体ばかりか、どういうわけか精神も年老いる。ソフィーは彼女の運命の過酷さを軽減し、呪いを解くための助けとなる年寄りの「知恵」をどうやってか身につける。これは映画のテーマの色合いをより深めるため、この点を長所だと考える人もいるかもしれないが、私はこれによってソフィーの苦境に共感しにくくなってしまった。主人公に感情的に同調できないため、ストーリーへの感情移入もできず、映画を楽しめなかった。まあそんな感じだ。

そのほかの点では「ハウル」は素晴らしい。

アニメーションの複雑さは、これまでのどのジブリ映画をも凌いでいる。最近の日本製アニメーション映画三作(ハウル、スチームボーイ、イノセンス)は、多岐にわたる物語を語るために、2Dアニメーションはまだ活力があるということを本当に示している。映像面では何一つ弱点がなく、アニメーションのスケールという点では新境地を開いている。「スチームボーイ」同様、「ハウル」の舞台設定はさまざまな時代のテクノロジーが混じり合った素晴らしい異世界である。城の内部の小世界とその住民同士の関係性はまさに宮崎らしい。実際、「千と千尋」の風呂屋や「もののけ姫」のタタラ場やシシ神の森同様、あるいはそれ以上に(「ハウル」の城の)内部で起こっていることにひきつけられる。また、「ハウル」は映像的にもストーリー的にも盛りだくさんなので、何度も見ることにより得られるものはたくさんある(もう一度見たらこの映画に対する私の評価は高くなると思う)。

宮崎映画は常にそうであるが、強い環境保護および反戦メッセージがテーマ的に映画を利している。彼のメッセージがストーリーとともにどのように展開されるかを見るのはいつも楽しい。エンディングは出し抜けにやってくる。壮大なストーリーにこの急いだエンディングはやや弱点だ。登場人物達と一緒に2時間を過ごして彼らの世界にもっといたいと思い、解決されていないことがたくさん残っているので、これはちょっと苛つく。しかし全体としては、2時間楽しめる。この映画をもう一度(まさにこの言葉がふさわしいが)経験するのが楽しみだ。


4月24日付New York Daily News紙のGraham Fullerは、「ハウル」について「昔ながらの2Dで作られているにもかかわらず、日本の巨匠、宮崎駿(「千と千尋の神隠し」)の最新傑作である「ハウルの動く城」は、この夏見逃せないアニメーション映画である」「80年代のイギリスのにやけたポップスターのような外見の、見栄っ張りのプレイボーイで空飛ぶ戦士であるハウルに恋するソフィーは、大人になるということは、自信のなさを克服し、自分の家族の変わりに新しい家族を作ることも意味していると徐々に悟っていく」と述べています。


アニメーション研究家のJerry Beckは、彼のウェブコラムCartoon Brewにおいて、「ハウル」について以下のように述べました。Beckのこの批評からの抜粋が、米国版のポスターにも使用されています。

宮崎駿の作品でどれが一番好きかを決めるのは難しい。カリオストロの城、となりのトトロ、天空の城ラピュタ、ナウシカ、キキ、そしてもっと最近の作品―決めるのはいつも難しい。けれど皆様、私はついに勝者が決まったと思う。

「ハウルの動く城」は傑作である―そして多分彼の最高傑作だ。私の一番好きな作品であることは間違いない。数週間前、私は特別試写会に招かれたが、映画の公開がもっと近くになるまでコメントするのを待つつもりだった。しかし、今予告編を見て、また興奮してしまった。そして(この映画の)評判を広めなければという気持ちに駆られたのだ。

この映画はまったく比類がない。素晴らしいロマンチックアドベンチャーであり、西洋の観客にとって「千と千尋」よりもさらに奇妙で(そして理解しやすい)ストーリーである。(あらすじ中略)ここまでで推測できるだろうが、これは典型的なディズニーのおとぎ話ではない。

宮崎はいつも最初の数秒で観客を彼の世界に引き入れ、まったく経験したこともないような旅へと連れて行き、映画のラストで現実に引き戻す。そして観客はもう一度最初からその旅を経験したくてたまらなくなる。この旅(「ハウル」)もその例外ではない。

宮崎の過去のお気に入りのテーマの繰り返しに満ちてはいるが、ハウルのストーリーは新鮮でエキサイティングである。ひきつけられるような新しいアイディアや息を呑むような映像が、映画の全体にわたって見られる。伝統的な日本のアニメ、フルキャラクターアニメーション、眩惑的なCGIの複合である映像は、豊かで魅力的だ。私は日本語版を見たが、ピクサー(ピート・ドクターが、魔女役のローレン・バコール(!)を含む声優陣を監督している)監修による英語吹き替え版が米国で公開されるのを楽しみにしている。

「ハウルの動く城」は明らかに長編アニメーション部門アカデミー賞の現時点での有力候補であり、見逃すべきではない。公開は6月10日である。


3月12日付TIMES紙は、ダイアナ・ウィン・ジョーンズに関する記事の中で「ハウル」が日本で映画化されたことに触れています。記事は宮崎監督はジョーンズ作品の長年のファンであり、ジョーンズもまた宮崎作品のファンだとして、ジョーンズの以下のコメントを紹介しています。

「彼は天才だと思う」とウィン・ジョーンズは言う。「多くの日本人のように、彼は背が低いけど、その部屋にいた誰よりも二倍大きく見えました。大きなケーキを囲んで座って、私たちはとても素晴らしい会話をしました。かわいそうに通訳はケーキを一口も食べられなかったの。自分と同じように考える人に会えるのは、とても稀なことです」

記事では宮崎監督がジョーンズの家を訪れたことになっていますが、実際には二人はブリストルで会っているはずなので、これは間違いではないかと思われます。


以下はシンガポールの英字新聞に掲載された「ハウル」評です。

2月23日付Straits Times紙は、「ハウル」の批評を掲載しました。

まず悪いニュース。日本のアニメの伝説的存在である宮崎駿の最新作は、彼の最高傑作ではない。

さて、いいニュース。二級の宮崎作品は、それでもドリームワークスとディズニーの最近の作品すべてを合わせたものよりももっと魅力的でイマジネーションにあふれている。

(中略)

ジョーンズの物語は典型的なやり方で「宮崎化」されている。舞台設定とキャラクターはヨーロッパ風だが、日本らしさが噴き出ている。あらゆる文化の影響を併せ持つ宮崎の折衷的なビジュアルは、ハウルの城のデザインにもっとも顕著に現れている。まるでロシアの魔女のバーバ・ヤーガのように、城は細長いニワトリの足で田舎を旅して回る。

(中略)

以前にも見られた癖だが、宮崎のキャラクターデザインにも繰り返しが見られる。(「ハウル」が)急ぎの仕事であったせいかもしれない。魔女のゴム男たちは「千と千尋」のカオナシのように見えるし、年老いたソフィーは「千と千尋」の銭婆婆のように見える。

奇妙な世界の設定とキャラクター紹介に宮崎が時間をかけたので、映画は最初はすばらしく始まる。しかし映画の半分ほどのところで、ジョーンズの物語の中の数々の陰謀を単純化するために脚本上の無理が生じ、ペースは揺らぎ始める。

それでも、壮大な魔法のシーンや抜群におもしろいコメディがこの映画にはある。そしてとても「カワイイ(訳注:原文でもKawaiiと日本語)」と吐きそうになるほど甘ったるいかわいらしさとの間の微妙な違いを、宮崎だけが理解している。

城はちょっとがたがたしているが、検査に耐えた。

2月25日付Business Times Singapore紙は、「ハウル」にC+の評価を与え、ストーリーがあまりにも複雑なので「論理を動く城に置いて、アニメーションのローラーコースターを楽しんだほうがいいかもしれない」「ストーリーは戦争中のヨーロッパに設定されており、宮崎のいつもの環境保護メッセージは反戦メッセージに変わっている。ソフィーは徐々に活発になり、ハウルの代わりに王の宮殿に送られるが、そこから複雑なプロットは徐々に崩壊し、観客は曲がりくねったストーリーに困惑したまま取り残される」としています。

2月25日付Today紙は、「ハウル」の「最初の10分間で息が止まるようなことが起こる」「そこには冒険の感覚と、かわいいユーモアと色彩にあふれたイマジネーションがある」として映画冒頭のハウルとソフィーの空中散歩のシーンを挙げ、「このシーンの展開はスリリングで楽しい。さらに楽しさが典型的な宮崎スタイルで続く」が、「こうした楽しさにもかかわらず、この映画は『千と千尋の神隠し』ほど一貫して(見る)価値がある映画ではなく、突然で信じがたいエンディングに向けてストーリーが曲がりくねっている。それでも、観客はかなりの間心の中に残るものを見ることになるし、宮崎のマジックタッチはいまだ心を暖かくし、胸躍らせる」としています。


2月19日付ハリウッド・レポーター紙は、「ハウル」の批評を掲載しました。ロッテルダム発の記事なので、記者はおそらくロッテルダム映画祭で見たものと思われます。

「ハウルの動く城」は、アカデミー賞を受賞した「千と千尋の神隠し」の脚本・監督の日本のアニメマスター宮崎駿による洗練されたアニメーションである。宮崎によるこれまででもっとも複雑なファンタジーは、ストレートな語りとモラル還元主義を避けて、現実の矛盾を反映した多層的であいまいなアプローチをとっている。多岐に渡るストーリーを宮崎はしっかりとコントロールし、登場人物のとらえがたい動機の謎解きへと巧妙に観客をいざなう。その結果、何が起こっているかを理解するのが難しいにもかかわらず、決して退屈しない。

英国の作家ダイアナ・ウィン・ジョーンズの児童文学に基づく「ハウル」は、日本では1億9千2百万ドルを稼いだ大ヒットとなった。しかしブエナ・ビスタが6月に公開を予定している米国では、(興行成績の)見通しは不確かである。

あまりにもプロットが多面的なので、子供たちは混乱するだろうし、アニメーションには典型的なはっきりしたヒーローと悪人がこの映画にはいない。批評家たちにとっては書くことがたくさんあるだろうが、一般の観客は複雑さに混乱するかもしれない。(劇場の)スクリーン上で素晴らしく見えるが、「ハウル」は視聴者にとってリスクが少ないDVDでのほうがいい成績を収めるかもしれない。

「となりのトトロ」のような宮崎の初期の映画は、若いということの心象風景―若者の夢や希望や失望といったもの―を探求していた。あの素晴らしい「もののけ姫」のような後期の作品には、社会的や環境的なテーマが加わっている。「ハウルの動く城」は更なる創作的進歩である。ストーリーと登場人物はあまりにも複雑に組み立てられていて、ドラマチックな対立という点では分析できない。ここにはヒーローも悪人もいない。魔術と戦争で分断された世界で、誰もがなんとか切り抜けようとしている。

宮崎の作品は超現実的であることが多いが、「ハウル」はむしろマジックリアリズム的な作品である。(キャラクター紹介中略)宮崎は登場人物を深く探求し、彼らの心にある人間性とおもいやりを明らかにする。

映像面ではいつもどおり驚異的である。題名となっている城は巨大な擬人的な建築物で、ハウルを王の兵士たちから守っている。魔女の黒ゴム人間はイブ・タンギィ(訳注:シュールレアリスムの画家)の絵の背教者たちのように見える。ハウルは典型的なアニメのヒーロー的に普通に描かれている―皮肉なうまいタッチである。映像的にはドイツが多く参照されており、グリム兄弟のフェアリーテールをほのめかしている。

2002年の「千と千尋」のベルリンでの金熊賞受賞は、アニメが芸術として受け入れられるための一歩前進であった。「ハウルの動く城」は、そのプロセスをさらに続けるに違いない。


米国のアニメ雑誌Animerica2月号は、「ナウシカ」等の米国でのDVD発売を記念して、ジブリに関する特集を組みました。(Animerica公式サイトの見出しでは、まだ「トトロ」がDVD発売されることになっていますが、これは間違いです)

記事にはAndrew Osmondによる鈴木プロデューサーのインタビュー@ベネチア映画祭が含まれています。以下はその翻訳ですが、日本語→英語→日本語と翻訳されているため、鈴木氏の発言は元発言からはかなり異なったものに翻訳されている可能性があることにご留意ください。

Animerica CoverQ:宮崎監督は特定の観客のために映画を作るとよく言っています。例えば千と千尋では友人の娘さんの話に基づいているとか。「ハウルの動く城」は誰のために作ったのですか?

鈴木:彼の奥さんです。宮崎さんは若い頃恋に落ちて、そして結婚したんですが、その後仕事中毒になってしまい、ずっと働きづめでした。そして自分が奥さんのことを忘れてしまっており、奥さんは年をとっていたということにある日気がついたというわけです。

Q:宮崎監督と奥さんは二人とも1960年代、東映動画のアニメーターだったんですよね。

鈴木:そのとおりです。実際奥さんは素晴らしいアニメーターで、宮崎さんより優秀なくらいでした。彼と結婚したために仕事をやめざるを得なかったんです。つまり日本は偉大なアニメーターを一人失ったというわけですよ!

Q:「ハウル」は宮崎映画としては珍しく他の作家の小説に基づいています。そのことによって宮崎監督の創作プロセスは違ったものになりましたか?

鈴木:いいえ。小説に基づいているからといって創作プロセスに違いが出たとは全く思いません。宮崎さんが他人の作品を映画化する場合、(その作品には)いつもなにか宮崎さんが好きなところがあるんです。通常それは舞台設定なんですが。「ハウル」の場合、宮崎さんが気に入ったのは、動く城と、魔法で老女に変えられてしまう18歳の少女という主人公でした。それが本当に気に入ったところです。ストーリーに関しては、映画をご覧になればわかるとおり、宮崎さんはかなり自由に変えています。念のため、宮崎さんは著者が気を悪くしないようにしたいと、ダイアナ・ウィン・ジョーンズに大丈夫かどうか尋ねました。(原作の改変は)契約に盛り込まれていたので、ジョーンズさんは何が起こるかすでに知っていました。

Q:映画を通して、ソフィーとハウルの関係性は変わります。ロマンチックな時もあれば、母と息子のような時もある。

鈴木:そのコメントは大変正しくて正確ですね。でもそれは意図的ではなく、ただそうなってしまったんです。ソフィーというキャラクターは、90歳に変えられてしまうところから始まって、映画が進むにつれてだんだん若くなっていくことに、宮崎さんは気がついたんです。ソフィーはおばあさんとして始まって、それから若くなって母親になり、それからまた若くなって妻の役割を果たし始める。つまり女性が年齢を重ねることによる変化と移行がすべてここにはある。映画を作っている間にそのことに気がついて、宮崎さんは大変驚いていました。

Q:ハウルというキャラクターについては、宮崎監督はどう思ったんですか?

鈴木:原作では、ハウルは「ハートのない」少年でした。彼は表面的にはとてもハンサムで派手な人間ですが、内面的にはなにもない人間です。ハウルというキャラクターに宮崎さんをひきつけたのはまさにそこでした。話の中で彼は青年になります。映画では、宮崎さんは欠けていた中身というか人格を若いハウルに与えたかったんです。それが宮崎さんがハウルをああいうキャラクターにした理由です。また、宮崎さんはハウルから多くの感情を感じました。ハウルが自分の一部のように感じたんです。


New Yorker誌1月17日号は、「The Auteur of Anime(アニメの映画作家)」と題する宮崎監督に関する12ページの記事を掲載しました。ジブリ美術館やジブリのこれまでの作品、宮崎監督の生い立ちまでがかなり詳細に紹介されています。また、ピクサーのジョン・ラセターがいかに宮崎監督と彼の映画を尊敬しているかを語っています。

記事はオンラインでは読めませんが、この記事を書いた記者、マーガレット・タルボットへのインタビューがオンラインで読めます。

New Yorker

以下は記事の一部を翻訳したものですが、日本語→英語→日本語と翻訳されているので、高畑監督や鈴木氏、宮崎監督の発言はオリジナルからはかなり異なっている可能性があることにご留意ください。


日本では漫画とアニメが人気で、幅広いジャンルの作品が作られていることを説明した後で、

宮崎はこうした商業主義からは距離を置いている。彼は今の日本のアニメーションがあまり好きではない。「アニメーターたちは年をとりすぎている」と彼は私に語った。「アニメーションはかつては若い人のためのものだった。今では40代の人間に支えられている」最近では、映画を見るならばドキュメンタリーを、特に「単に別の文明の別の人々を見せようとするシンプルなもの」を好むと宮崎は言った。「それらにしても偏向はありますが、でも僕は(ドキュメンタリーが)好きです」

(宮崎監督の生い立ち中略)

「祖父は裕福で、人生を楽しむことを知っている人でした」と、宮崎の二人の息子の一人、宮崎吾朗は語った。去年の夏、彼が館長をしているジブリ美術館で、私は彼をインタビューした。「レストランや映画に行くことが好きで、楽しむのが好きな人でした。祖母は大変知的な人で、外出にはあまり興味がありませんでした。彼女ははっきりした意見を持っている人で、お金を使うのは嫌いでした。彼女は宮崎に大きな影響を与えました。若い頃、色んな質問―思想的なこと―を宮崎が相談できる相手は母親でした。4人の息子のうち、彼が一番母親と親密でした」

宮崎の友人である鈴木はもっと直截である。「彼はマザコンでした」と鈴木は言った。宮崎の映画にいつも老女が登場し、それがしばしば辛らつなキャラクターであるのは、監督の母親へのトリビュートであると鈴木は考えている。「彼が小さい頃、母親は病気で、4人の兄弟は交代で家事を手伝っていました。でも彼が一番母親を愛していたんです」(映画の元気なおばあちゃんたち同様、宮崎の母親は老年まで生きて周りを驚かせた。)

宮崎の両親はどちらも芸術的ではなかった。「祖父は絵を買ってお客に見せびらかすのが好きでした」と宮崎吾朗は言った。「しかし祖父が芸術を理解していたかどうかはわかりません。宮崎の才能がどこから来たかは謎です。宮崎は兄弟に対して一種のコンプレックスを抱いていて、それがアニメーションで成功しようという強い動機になりました。兄弟たちは父親のほうに影響を受けて、ビジネスの世界に入りました。けれど宮崎にとって成功は容易ではありませんでした。彼は器用ではなく、本当に努力しなくてはなりませんでした」

(高校生のとき「白蛇伝」を見たこと、東映動画入社後のキャリアなど中略)

宮崎は仕事中毒で、(パンダコパンダ制作)当時もその傾向はフルに現れていた。「僕が小さい頃、彼は夜中の2時に帰ってきて朝は8時に起きて、一年中TVシリーズをやっていました」と宮崎吾朗は回想した。「たまにしか会えませんでした。「よし、家にいるな」とチェックするためだけに毎朝父の部屋を覗いて、眠っている父を見ていました」ジブリ美術館のために、三十代前半になって初めて父親と一緒に仕事をし始めて、吾朗は「家にいない父親であったがゆえに、父の創作プロセスをよく理解した」と感じたという。「子供の頃、父を研究しました。彼についてもっとよく知るために、僕は彼の映画を熱心に見ました。彼について書かれたものはすべて読みました。彼の絵を研究しました」残念そうにくすくす笑いながら、彼は付け加えた。「僕は自分のことを宮崎駿の一番の専門家だと思っています」

宮崎について学んだことを宮崎本人に話したことはあるかと吾朗に聞くと、彼は笑って、そうするのは想像できないと言った。彼はむしろ母親と近しく、母親は彼をハイキングや山登りに連れて行って、木や花や鳥の名前を教えてくれた、と彼は言った。しかし、父親が作品の制作を終えるとレストランでうなぎを食べて家族でお祝いしたことを、吾朗は覚えていた。父親におもちゃをねだると、宮崎はその代わりに木の削り方を教えてくれた。吾朗は現在その能力に感謝している。どこにいようとも自分の手で何かを作ることができると感じるからだ。

(「コナン」「カリ城」「ナウシカ」の制作とジブリの設立について中略)

宮崎は(「ナウシカ」制作)プロジェクトに没頭した。「宮崎さんは9時から朝の4時半まで働いてました」と鈴木は言った。「そして休みを取らなかった。彼は50歳になってかなり変わりました―時々は日曜日に休みを取るべきだと悟ったんです。今は午前0時には帰るようになっています」(「僕は長い休みは取りません。そんな時間はありません。僕にとっての休みは昼寝です」と宮崎は私に語った。)

(「ラピュタ」と「魔女の宅急便」の制作について中略)

当時、スタジオを閉めることを宮崎は考えていた。「三本の映画を同じスタッフで制作した後、人間関係がややこしくなりすぎたと彼は感じていました」と鈴木は回想した。結局、スタジオを閉めることは間違いだと宮崎を説得することに鈴木は成功した。(多分鈴木は、宮崎に何かをさせることができる唯一の、でなければ数少ない人間の一人である。「彼は宮崎さんをどう扱うかを知ってます」と高畑は言った。「子供を扱うのと同じだと知ってるんですよ。宮崎さんに何かしてもらいたいとき、その反対のことを言うんです。提案に対してノーというのはわかってますからね」)

インタビューした日、鈴木は黒いジーンズにTシャツを着て、ひっきりなしにタバコを吸っていた。「大望のある若い人たちはとても純粋で、正直です。宮崎さんは僕がそういうタイプではないと知って、そこが気に入ったんです」と彼は言った。

(中略)

「最近宮崎さんが夜僕の部屋にやってきて、二人だけで話したんですが、真面目な顔して「ジブリをどうしようか?若い才能もあまりいないし」って言うんです。「自分はあと10年はやれると思う」って言うから「本当に?あと10年?」って。日本のファンは宮崎さんにアニメを作りつづけてくれって言いますが、僕は彼に引退して欲しいと思っている日本で唯一の人間です」

高畑と宮崎は長年一緒に働いてきたが、近年では別々の道を行っている。高畑は文学や映画理論により興味があり、より知的で、魔法には(宮崎ほど)興味がない。彼の映画は子供向けではなく、「火垂るの墓」は実写映画としても通用する。高畑は69歳だが、黒々とした頭と皺のないハンサムな顔をしている。「宮崎映画では、その映画の世界を全く信じなくてはならない」と高畑は語った。「彼は自分が完全に作り上げた世界に観客が入り込むことを求めるんです。観客は(その世界に)身をゆだねることを求められる」高畑は言葉を切った。「僕は観客にはもうちょっと距離を持ってもらいたいんです。僕と宮崎さんとの関係は今は限られています。彼とは友人ですが、直接一緒に仕事をすることはありません」

(スタジオの説明中略。記者が取材のためスタジオジブリを訪れた日、宮崎監督も偶然スタジオに来ていました。)

その日、宮崎は完成した「ハウルの動く城」を彼の妻とジブリのスタッフに見せたところだった。彼はリラックスムードであり、通訳を通して質問し始めると、答えはじめた。

(中略)

今日が「ハウルの動く城」を見る最後の日だと、宮崎は楽しそうに宣言した。「映画がスタジオを離れたら、自分の映画は二度と観ないんです。その映画にずっと付き合って、どこで間違いを犯したか、よくわかってますから」と彼は語った。「ちょっと縮こまって隠れなくちゃならなくなる。「ああ、そうだ、この間違いは覚えてる、これもだ」って。そういう苦しみを何度も何度も味わう必要はないですよ」そう言いながら、彼はうわついた少し狂気じみた笑い―というかむしろくすくすと、笑った。ともかく、次のプロジェクトをすでに計画していると宮崎は言った。美術館用の短編映画である。「何本か作る予定です。しょうがないでしょ?スタッフを食わせていかなくちゃいけないし」と言って、彼は周りにいる人たちを指し示した。「彼らをみんな食わせなくちゃいけないんですよ」

「ハウルの動く城」のどこに惹きつけられたのか尋ねると、「ソフィーは呪いをかけられ老女にされてしまう。若さを取り戻すことがその後幸せに暮らすことになるなんてのは嘘ですよ。それは言いたくなかった。年をとるのはそんなにも悪いことだというようにしたくなかった。少しの間年寄りになることで、彼女は何かを学び、それが実際に年を取ったとき、彼女をよりよいおばあちゃんにするかもしれない、と考えたんです。とにかく、ソフィーは年をとることでより元気になり、思ったことを口に出せるようになる。恥ずかしがり屋で内気な少女から、はっきりものを言う正直な女性にと変わる。あまりないモチーフだし、おばあさんがスクリーンの中心を占めるなんて大きなリスクです。でも、若いということが幸せを意味すると思うのは幻想です」と宮崎は語った。

宮崎はタバコをふかした。「ソフィーが千尋によく似ているという人もいます。そうかもしれない。でもそれは怖くないんです。繰り返しを避けることにより失うものの方が、繰り返すことにより失うものよりも多いと思うんです。常に斬新なことをしようとする人もいますが、僕は自分が何が欲しいかわかってるし、それをやり続けるつもりです。計算とか知的な説明とかをやる忍耐強さが僕にはもうあまりないんです。時代のせいでしょうね。すべてを知っている人なんていない。何が起こるかわかる人なんていない。だから、賢くなりすぎようとするな、ってのが僕の結論です。なぜそういう風に感じるのか?なぜ落ち込むのか?怒るのか?セラピストにかかったところでそれはわかりませんよ。解決できないんです。それに、どんなトラウマも自分の重要な一部です」

宮崎は手で頭の後ろをなぜた。「この映画で、僕は10年前だったらしなかっただろうことをやりました」と彼は語った。「映画の途中で大きなクライマックスがあって、解決で終わる。古いタイプのストーリーテリングです。ロマンチック」確かに、「ハウルの動く城」では宮崎映画初のキスシーンがあり、さらにはっきりとしたラブストーリーの要素を含んでいる。「千と千尋」のいくつかのシーンにおける哀愁を帯びた美しさや、「トトロ」における感情の繊細さは、「ハウル」にはない。(ケープや肩章のついたジャケットをまとった見栄っ張りで世捨て人の魔法使いの少年であるハウルは、マイケル・ジャクソンを思い起こさせる。)しかしこの映画には、野生の花が咲き乱れるアルプスの風景や面白く気難しい火の悪魔と共に、監督のしっかりとした魔術のセンスがある。そして、生きて息をしてがちゃがちゃいっている城は、宮崎の最も驚嘆すべきデザインである。砲塔やバルコニーが密生した巨大なヤカンのように見える城は、金属の表皮に覆われ、なんと鳥の足で田舎を歩き回ってサイのように移動する。

それは暖かい午後で、窓の外ではセミがやかましく鳴いていた。宮崎は依然生き生きとして見えたが、にもかかわらず彼は暗い世界観を語り始めた。「若者がうらやましいとは思いません」と彼は語った。「彼らは実は自由ではないから」それはどういう意味かと私は彼に尋ねた。「彼らはバーチャルリアリティーで育ってるんです。田舎ならましかっていうとそんなことはない。田舎の子供は都会の子供よりももっと長時間DVDを見てる。僕は山小屋を持ってるんですが、その近くで友人が小さな中学校を運営してるんです。27人の生徒のうち、9人が家で授業を受けています。外を怖がるあまり家から出られないんです」彼は続けた。「一番いいのは、バーチャルリアリティーが消えてしまうことです。僕らが作ってるアニメーションでも、バーチャルな物を作り出しているということはわかってます。「アニメーションを見るな!もう充分バーチャルリアリティには囲まれてるだろう」ってスタッフには言い続けてるんです」

(中略:記者と宮崎監督はジブリの屋上に上り、屋上庭園から豚屋(宮崎監督のアトリエ)や日没を眺めた。)

びっくりするほどの熱意で、宮崎は環境災害の問題について語り始めた。「人口が突然落ち込んで消えてしまうことだってありえるんですよ!」とタバコを宙に振り回しながら、彼は言った。「この問題について最近専門家に聞いたんです。「本当のことを言ってくれ」って。彼によれば、今のような大量消費が続けば、あと50年も持たないそうです。そしたらどこもベネチアのようになる。(訳注:温暖化による海面上昇と地盤沈下でベネチアは水没が心配されている。)もっと短いかも、40年ぐらいかもと僕は思ってます。あと30年は生きたいと思ってるんです。海面が上昇して東京が沈んで、日本テレビタワーが島になるところを見たい。マンハッタンが海面下に沈むところを見たい。人口が急減するところを見たい。そしたらもう誰も買わないから高層マンションもなくなる。そう考えると興奮します。金や欲望―そういったものがみんな崩壊して、あとは野草が支配するんです」

日本のTVネットワークである日本テレビのオフィスタワーを前日訪れたと宮崎は言った。「航空機用の赤い警告灯のところまで、260メートル登ったんですよ。都市全体が見えるんです。それで、ここは呪われてる、もう終わりだ、って思ったんです。あんなにたくさんのビル、あんなにたくさんの小部屋」

そこへ鈴木が加わり、そして高畑がやってきてズボンの足から注意深く大きな黒いアリを取り除きながら、誰にも挨拶せずに座った。最近、アリはとても知的で文字が読めるというフランスの小説を読んでいるのだと高畑は言った。昆虫と彼らの精巧なコミュニケーション方法に関するE.O.ウィルソンの研究について、誰かが言及した。「ところでカエルはどうですか?」と鈴木は宮崎に尋ねた。宮崎は自分の家の池でカエルを飼っているのだと説明した。

「おたまじゃくしが何匹いるか、把握しておこうと思うんだけど、どうすりゃいいんですかね。背中に番号を書いておくわけにもいかないし」

三人の男は、カエルとトンボとセミと、そしてバッタの数が開発のために日本で減少していることについてしばらく話していた。この話題には、三人とも熱が入った。「うちの近くに空き家があるんで、それを買ってそのままにしておきたいんですよ」と宮崎は言った。「野草が生い茂るままにしておこうって。どれだけ伸びるか、その生命力は驚異的ですよ。草は全然刈りたくないんだけど、そうすると剪定バサミを持ったおばあさんたちがやってきて、叱られるんです。その世代が死に絶えるまで待たなくちゃダメですね。それまでは、僕が見たいような草は見られない」

自分自身は園芸家ではないと宮崎は言った。「庭造りはうちの妻の領域です。でも彼女がやると、大虐殺ですよ。虫は邪悪だ、退治しなくちゃ。雑草だって、かわいそうに、引っこ抜いちゃうんですよ」彼は微笑んだ。「エコロジーじゃなくてファシズムですね」日本は新しい形の農業をはじめなければ、と宣言したあと、彼は認めた。「僕はできません。僕は農夫のタイプじゃないんです。だから文句を言うだけ」

近隣の森を買って開発から守るためのナショナルトラスト運動に宮崎が「トトロ」の権利を寄付したことに言及すると、「ああ、大して大きい森じゃないですよ。でも何かをしようとはしてるんです」と宮崎は言った。「それで救われた土地を全部合わせたら、大きいですよ」と高畑が声を上げた。宮崎は肩をすくめた。

日本の環境破壊に対してとても厳しい意見を持っているようなので、日本以外で住みたいところがあるかと聞くと、「いいえ」と彼は答えた。「日本でいいですよ―みんな日本語を話しますからね。僕はアイルランドの田舎が好きです。ダブリンはヤッピー、コンピュータータイプが多すぎる。でも僕は田舎が好きです。イングランドより貧しいですからね」ドイツのポツダム、そしてサンスーシーの古城が好きだと宮崎は言った。「子供のころ見たと感じる場所に出会うときがあるんです。古い街でのある光の加減とか。タルコフスキーの映画もそうなんですが、そういう感覚は常にある。エストニアのある都市を訪れたとき、そういうふうに感じました」旅はあまりリラックスにならないと宮崎は付け加えた。散歩が彼のリラックス法であり、人類は歩くことによってリラックスするようにできていると彼は述べた。彼は「毎日仕事場まで歩いて通いたいんだが、二時間半かかる」ので、そうすると仕事をする時間がなくなってしまうと言った。

この発言により、宮崎は彼がしなければならないもろもろのことを突然思い出したようだった。宮崎は去るためにきびすを返し、鈴木と高畑とそのほかのスタッフはあちこちへと散り始めた。

東京都心へと帰る電車の中で、私は宮崎の映画がいかに優しく人間的であるか、そして宮崎個人がいかに厳しく聞こえたことが多かったかを考えた。この対立を、私は社会批評家のアントニオ・グラムスキが呼ぶ「知性の悲観主義、意志の楽観主義」の例として尊重することに決めた。あるインタビュアーが、宮崎の映画は「人間の善良さへの希望と信念」を表していると、宮崎に言ったことがある。宮崎は実際自分は悲観主義者だと答えた。それから彼は、「僕は自分の悲観主義を子供たちにうつしたいとは思いません。大人は自分の世界に対する見方を子供たちに押し付けるべきでないと、僕は思います。子供たちは自分たち自身の見方を持つことができる充分な能力があるのです」と付け加えた。


Ain't It Cool Newsは、ロッテルダム映画祭で一般上映の前に映画を見る機会を得たというElainによる「ハウル」の批評を掲載しました。

「ハウルの動く城」が昨年に11月に日本で公開された時、わずか4日で110万人を動員し興行記録を打ち立てた。10週間後、「ハウル」はいまだに日本の興行ランキングのトップであり、「千と千尋の神隠し」の興行成績を上回るだろうともいわれている。

正直言って、私にはそれは信じがたい。「ハウルの動く城」は確かに見る価値のある映画だが、「千と千尋」には遠く及ばない。また、現在日本で「ハウル」のおかげで興行ランキングのトップに立てない「Mr.インクレディブル」の半分もよくない。

(あらすじ紹介省略)

この映画にはいいところがたくさんあって、主にそれは絵の部分である。常にそうだが、宮崎のデザインは完璧だ。いつものように大きなセイウチ髭の男たちや奇妙なデザインの空飛ぶ機械が映画に登場するが、それだけではない。中欧風の美しい都市から、休みが必要なときにハウルがソフィーを連れて行った開けた風景まで、宮崎のインガリーはロマンティックなビジョンであり、あまりにも申し分なく描かれているので、実際に存在していたら訪問できるのにと願うほどだ。足のついた深海魚に似た、映画のタイトルともなった動く城は、火の悪魔や変身する生物たちや魔術同様、この世界で奇妙にも自然な存在に見える。久石譲(もっとも優れた現役の映画音楽作曲家の一人)の見事な音楽でもって、この映画は素晴らしく見えるだけでなく、素晴らしく聞こえる。

残念なことに、欠けているように思われるのは、よいストーリーである。ダイアナ・ウイン・ジョーンズの「ハウルの動く城」は、動機が不明瞭かもしれないが人を惹きつけ続けるしっかりと描かれたキャラクターたちが登場する、思春期と心をなくすことに関する微妙で緻密な探究である。宮崎の映画バージョンは小説ほど心を捕らえない。確かに、荒地の魔女とカルシファーは素晴らしいコミックリリーフだが、小説ではあんなにもしっかりと描かれていたメインキャラクター達は深みを欠いている。彼らが直面する困難はわざとらしく、彼らの人生の状況と背景はあまりにも単純化されていてわけがわからなくなってしまっている。さらに悪いことに、彼らのお互いへの関係もあいまいなままである。そしてキャラクターたちがお互いにどう関わることになっているのかずっとはっきりしないために、彼らの間で何が起ころうとかまわないという気になる。また、彼らの国に何が起ころうとも特にかまわないという気になる。美しくは見えるが、決してそれに対する感情を呼び起こさないからである。国はラブストーリーと戦争商売の舞台であって、それだけである。他の宮崎映画に登場した環境のようにそれ自体がキャラクターとなることはない。ラブストーリーと戦争が実際に意味をなしていればそのこと自体は別にかまわないのだが、それが意味をなしていない。すべての素晴らしい要素にもかかわらず、ラブストーリーはハートを欠いており、戦争は最後まで説明されずに、最もばかげた急いだやり方で終わってしまうからである。デウス・エクス・マキーナな終わり方だと呼びたければ呼ぶがいい。私はそれを悪い終わり方と呼ぶ。

悲劇的にも、深みと一貫性を欠いていることはこの映画の唯一の問題ではない。宮崎のほかの作品になじみのある観客は、間違いなく見覚えのある、これは前にも見たことがあると感じるだろう。あまりにも多くの宮崎のおなじみのテーマやトリックが再利用されていて、この映画はまるでリサイクルの練習かとも思えるほどだ。慣れ親しんだことや予測のしやすさは時には愛すべきことであるが、ほとんどの場合それらはちょっとうざい。比較的弱いストーリーと共に、それらはこの映画を見るという経験をちょっとがっかりするものにする。言っておくが、悪い経験ではない(あまりできのよくない宮崎映画でさえ、平均的なアニメーション映画よりはるかによい)。ただ、例えば「千と千尋」や「ラピュタ」のような素晴らしさには及ばないということだ。しかし少し期待を下げれば、この映画が米国で6月に公開されたときには、あなたはこの映画を充分価値あるものだと思う可能性が高い。近年のアニメーションでもっとも面白い創造物である荒地の魔女とカルシファーに感嘆するためだけにでも見る価値がある。

最後に、公開された際には、字幕版を見るようにしなさい。日本語の声の演技は素晴らしく(耳ざわりな小さな女の子の声はここにはない)、米国の吹き替え版がこの映画にふさわしいものになるか疑問である。さらに、Michaelという名前がマルクルと奇妙に日本語風に発音されているのがこの映画の魅力の一つでもあるのだが、吹き替えではそれがなくなってしまう。


中国系アニメ・漫画販売サイトOKComic.netに宮崎監督のインタビューが掲載されています。インタビューは2004年11月に行われたとのことですが、それ以外の詳細についてはわかりません。

以下はインタビューの翻訳ですが、日本語→中国語→英語→日本語と多重に翻訳されているので、正確さはまったく保証できませんし、宮崎監督のオリジナルの発言とはかなり異なってしまっていると思います。その点を留意の上お読みください。

Q:監督としては引退すると何度もおっしゃっていますが、「ハウル」に関しても当初は単にエグゼクティブ・プロデューサーとして関わるつもりだったと聞きました。なぜ気が変わったのですか?

宮:アニメーションの世界を去ろうと何度も考えましたが、自分が本当に好きな作品(原作)をみるたび、自分のやり方でそれを表現したくなります。他の人にその作品(の映画化)をまかせても、あそこはああするべきだ、こうするべきだといつも考えてしまいます。結局自分でやったほうがいいと感じるのです。原作の本来の持ち味を引き出すために、戻ってくるのです。

Q:私の知る限り、過去の作品はプロの声優が吹き替えをしていますが、なぜ今回は木村拓哉を使おうと思ったのですか?

宮:鈴木敏夫プロデューサーの提案です。ハウルはこれまでのアニメーション作品でもっともハンサムなキャラクターだから、日本を代表するハンサムな男性が声優としてふさわしいと、鈴木さんは木村拓哉を推薦し、僕がその人を知っているかどうか試そうとしたんです。鈴木さんは僕が山にこもってテレビなんか見たこともない変な年寄りだと思ってたんですよ。だから木村拓哉なんて聞いた事もないだろうって。それで誰だか知ってると言ったらショックを受けてましたね。

(この70歳を越える老人は小さな子供のように満足げに笑い出した。)
(訳注:宮崎監督はまだ60代前半です)

Q:あなたのどの作品にも人道主義がはっきりと感じられます。「ハウル」においても強い反戦感情がありました。

宮:教育的なイデオロギーやメッセージを意図的に観客に伝えようとはしていません。そんなものが僕の作品の中に本当に存在しているとしたら、自然に出てきているにすぎません。僕がなにかとても深い真実を語っていると多くの人が思っていますが、実際には僕が好きなのはシンプルさなんです。僕らが「ハウル」を作ったのは、戦争や経済危機など、この世界に不幸があまりにも多すぎるからです。この映画を通して、人々が勇気を持ちつづけ、希望が持てるといいと思います。未来の世界はまだ素晴らしく美しい。生き延びて探検する価値のある世界なんです。

Q:ディズニーやドリームワークスのアニメーション映画についてはどう思いますか?

宮:個人的には、ディズニーの初期の作品が好きです。「アメリカのアニメーション」と全てを一くくりにしてしまいますが、実際にはそれらの間には表現方法に大きな違いがあります。ドリームワークスは間違いなく「反伝統的」です。ディズニーに比べて、ドリームワークスはキャラクターの描写とプロットにもっと注意を払っています。スタイリッシュな3Dアニメーションが多く使われ、モダンな雰囲気を与えています。ディズニーのアニメがクラッシックバレエだとすれば、ドリームワークスのアニメはポピュラー音楽のようなものです。

Q:そのほかのアジア諸国のアニメーションについてはどうですか?

宮:中国と台湾のアニメーションが本当に好きです。例えば「チャイニーズゴーストストーリー」は中国の伝統的な美的センスをフルに表現しています。こういったその国独自の空気を持つ作品が好きです。あまりそういう作品がないのが残念ですが。また、韓国の制作者(アニメーター?)はもっともプロ意識が高い人たちです。彼らの注意深く誠実な仕事のやり方は尊敬に値します。落ち葉の一片を描くのにすら教科書を引くのです。彼らのアニメーションに関する理解は独自のものがあり、個性的で深遠です…もし中国、日本、韓国のアニメーターが自分たちの伝統的な芸術のほんの一部でも表すことが出来たら、世界はショックを受けると思うんです。その国独自の伝統的な作品というのが最も魅力的なものなんです。


フランスのアニメ雑誌、Animelandのサイトでは宮崎監督とフランスのアーティスト、メビウスの対談の様子が動画で見られます。対談の翻訳は、「宮崎とメビウス」ページをご覧ください。


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