雑文

〜ジブリに関するいろいろ〜

或るキキファンの話 12/26

ジブリの映画は様々な人に様々な影響を与えています。「映画は観客に出会って初めて映画となる」といいますが、ある観客にとって、映画は時には作り手の思惑も超えた意味を持つ事があります。そのような観客に出会えた映画は幸せだと言えるのではないでしょうか。これは、私の大切な友人であり、Nausicaa.netのメンバーの一人でもあるMarc Hairstonの話であり、「魔女の宅急便」というもともと「日本の若い女性と子供たちのために」作られた映画が、米国のテキサス州と言う日本から遠く離れた地で彼と彼の家族にとってどんな意味を持っているか、という話です。

少し長いですが、とても素敵な話だと思うので、どうか最後まで読んでください。(原文はこちら

アンジーのセル画


マーク・ヘアスタン

素晴らしい義母なんてものは存在しない。義母というのは鬼か、魔女か、せいぜい逃れようのない結婚生活上の苛々のもと、という事になっている。しかし、どういうわけか私は素晴らしい義母をもつ事となった。私同様宮崎映画を愛した彼女は1999年の1月に亡くなってしまったが、これは彼女の話であり、私が彼女に完璧な贈り物をあげようとして失敗した話である。

アンジェリナ・モアルスに最初に出会ったのは、20年前、ライス大学の卒業式だった。当時私は未来の妻であるベッキーと付き合って数週間で、ベッキーが卒業パーティーの機会に両親に私を紹介したのだ。 彼らが自分の娘にまとわりつくこのグリンゴ(白人)を見てどう思ったかは今でもわからない。多分、どうせ長くはもたないと思ってそんなに心配しなかったのだろう。しかしベッキーは母親を説得して、日曜日の教会の後のランチに私を招く事に成功し、それはその後数年にわたって私が大学院のためにヒューストンにいる間毎週の儀式となった。 モアルス夫妻とベッキーの弟のジェームズは(ベッキーの計画どおり)徐々に私に慣れ、ついにはこの(彼らが冗談でそう呼ぶ)「ならず者」を家族の一員として迎える事に同意してくれた。私のほうも彼らを徐々に知る事となったが、「モアルス夫人」ではなく「アンジー」と彼女を呼ぶにはかなりの年月が必要だった。

アンジーを理解するには、彼女が教師であることを知る必要がある。毎週恒例のランチの席で、私は彼女のストーリーを知る事となった。1960年代に息子のジェームスが教会の幼児保育プログラムに入った際、彼女はその手伝いとして働き始め、やがてヒューストン大学で児童教育の学士号(その後修士号も)を取得した。 彼女は11年にわたってサンペドロ・ルーサー派教会で幼児保育プログラムを運営し、その後ベサニー・ルーサー派学校で小学一年生を担当する教師となった。アンジーは世界の新しさに対する子供のような驚きと興奮を決して失わないたぐいまれな教師だった。子供たちは皆彼女が大好きで、アンジーは読む事と学ぶ事の楽しさをほぼ2世代にわたる子供たちに伝えつづけた。

1994年、「となりのトトロ」の英語版が米国で発売された。ビデオを見せたとたん、アンジーはこの映画の熱烈なファンとなった。トトロは見るもの全てをその年齢に関わりなく魅了することのできる希な映画の一つである。アンジーはすぐさま自分でもビデオを購入し、その後毎年彼女のクラスの1年生たちにこの映画を見せ、子供たちは皆トトロファンとなった。宮崎映画はアジアではとても人気があるが、当時米国で手に入るのは「トトロ」だけだった。しばらく探し回った後で、私たちは海賊版のFansub(訳注:ファンが訳した英語字幕のついたビデオ)の「魔女の宅急便」のビデオを手に入れた。この映画は正式な魔女となるために新しい街で1年間自立して暮らさなければならない13歳の魔女見習いの話である。使える魔法(それすらもあまりうまくはない)が数少ないキキは飛ぶ力を使って宅急便を始め、さらに新しい街で自分の新しい拡大家族をつくるというもっと難しい仕事に取り組む事になる。この映画の精神にはディズニーの大ヒット作よりももっと真情にあふれた心と魂があり、アンジーにとってこれは最も好きな映画の一つとなった。

この「子供映画」が大人に、特に60代の女性にとって、そんなにも意味あるものであったというのは驚くべきことではない。 1950年代初め、まだティーンエイジャーの頃、東テキサスの小さな街からヒューストンという大都会に出てきたアンジーには、キキの苦労が我が事のように思えたのだ。キキ同様、アンジーも自分の道と、自分自身の家族を見つけなければならなかった。親戚の助けを借りて、アンジーは仕事を見つけ、やがて若くてハンサムな元海兵隊員のフランク・モアルスに出会って結婚した。フランクは当時都心部(訳注:米国では貧困層が集中する所)でルーサー派小学校を始めた所だった。50年代のヒューストンで、貧しい教師の妻でありヒスパニック(訳注:中南米からの移民の子孫)である事は楽な事ではなかったが、彼らは信仰と強さで切り抜けてきた。

ベッキーと私が結婚し、私がついに卒業した後、私たちはダラスに引っ越した。それが毎週のランチの終わりで、かわってお互いの訪問が始まった。この間(母親や義母が普通するように)いつ孫の顔を見せてくれるのかなどとアンジーが私たちにプレッシャーをかけた事は一度もなかった。その事に私たちは感謝している。私たちが自分のキャリアに集中している間、彼女がどんなに孫を欲しがっていたかを知ったのは、彼女が亡くなった後だった。しかし(彼女が亡くなる)二年ちょっと前に、私たちはモアルス家の初孫である息子のロベルトをもうけ、これまで押さえつけられてきたアンジーの祖母らしさが一気に噴出する事となった。

アンジーが教師の職を引退して彼女の真の天職である祖母業に専念してくれる事を私たちは願っていた。フランクは70歳をとうに過ぎてやっと引退したが、アンジーは1988年の3月に65歳になった所で、引退をほのめかすたびに、自分の子供が来年1年生になるからぜひアンジーに教えてほしいという親が現れた。その春、アンジーは多分もう一年だけ教えて、その後引退して孫達(ジェームスと彼の妻が2人目をもうけた所だった)と遊ぶ生活に入ろうと考えていた。

しかし、1998年の4月、アンジーは黄疸にかかった。成人して以来これまで文字どおり一日として病気になった事のないこの女性は、当初胆石と考えられた病気のために入院した。しかし、実はそれはガンであり、5時間にわたる手術の末、膵臓、胃、小腸の一部を切除する事となった。その上、手術後彼女の消化器官はなかなか働き始めず、ただ再びシステムが働き出すのを待つ事しかできなかった。最初の1週間半の回復期間の後、彼女は毎日の散歩(ただし点滴付きで病院の廊下で)も再開し元気で、そして完全に退屈していた。

彼女の消化システムが元に戻るのに結局6週間を要した。4週間目に、ビデオデッキを部屋に持ち込めばTV番組以外のものも見られると看護婦が提案した。看護婦は病院のライブラリから「ツイスター」と「メン・イン・ブラック」の2本のテープを持って来てくれたが、アンジーは5分とそれらを見ていられなかった。「他にも映画はたくさんありますよ」と看護婦は言ったが、アンジーは代わりにフランクに向かって、「家へ戻って、私のキキのテープを持ってきてちょうだい」と命じた。その日アンジーは「魔女の宅急便」を2度見て、それが入院後最も(孫の毎週の訪問の次に)彼女の精神にとって元気のでる薬だったと、後に私たちに言った。

6月の終わりにアンジーは退院し、8月には新しい孫の顔を見にカリフォルニアに行けるまでに回復し、9月には再び1年生を教えるために教壇に戻っていた。完全には回復してはいなかったものの、彼女が学校から離れてはいられない事は明らかだった。教える事と子供たちを一緒にいる事は彼女を元気付け、戦いつづける強さを与えた。家族の他には、この子供たちが彼女の命だった。また9月には、「魔女の宅急便」がついに米国でも発売された。彼女はすぐにビデオを買って、後日子供たちに教室で見せようと計画していた。しかし食欲が戻らず、体重が落ち始めた。11月にはCT検査で問題が明らかになった:最初の手術の傷が癒着して胃のすぐ下の小腸をふさいでいたのだ。感謝祭の直前、アンジーはM.D.アンダーソン病院ガンセンターに再入院した。

感謝祭の間、私は偶然アンジーのための完璧な贈り物を見つけた。完璧な贈り物−贈られる人にとって本当に重要で意味があり、通常の贈り物をはるかにしのぐ贈り物−そんな贈り物はめったになく、私はためらう事なくそれを注文した。それはキキのセル画で、キキが赤ん坊におしゃぶりを返して、キキと母親が楽しそうに乳母車を覗き込むシーンのものだった。キキの表情は純粋な喜びにあふれており、アンジーはきっと気に入るだろうと確信していた。この段階で、アンジーにはあらゆる元気付けが必要だった。

感謝祭の一週間後アンジーは手術を受けたが、傷の癒着ではなく別の腫瘍である事が判明した。「あと数ヶ月の命です」と外科医は私たちに告げた。「手の施しようがありません」と。4月以来恐れていた事が本当となったのだ。しかし少なくともクリスマスはまだ一緒に過ごせるし、運が良ければ春まで一緒にいられる。次にヒューストンを訪問した際、私はセル画を持って行き、表装してもらうためアニメーションアート専門の画廊に預けた。「クリスマスまでに必要なんだ」と私は言い、画廊はそれは可能だと請け負った。もうクリスマスに贈るためにセル画につける文章も考えてあった:「母さんへ。これから数ヶ月は辛い事もあるけれど、毎日壁に飾られたキキの笑顔を見る事で、少しでも重荷が軽くなる事を願っています。愛を込めて。ベッキーとマークより。」 まだ時間はある−そう私は思っていた。

しかし、私たちが考えていたよりもずっと早く、時間切れはやってきた。手術の一週間後、アンジーは再び黄疸になった。超音波検査で、腫瘍がアンジーの胆管をふさいでいる事が明らかになった。「もしこれを直す事ができなければ、肝臓が駄目になって、あと数週間しかもたないでしょう」と医者は私たちに告げた。胆管を開けておくために管の中に器具が入れられたが、クリスマスの3日前、それも失敗した事を私たちは告げられた。計画したようにクリスマスに家に帰る代わりに、アンジーは翌日ホスピスに移された。

たった2週間で、私たちに残された時間は数ヶ月から数週間に、そして数日になってしまった。「まだ時間はある」−翌日ダラスからヒューストンへ冬の嵐をついて向かう間、私は自分に何度も言い聞かせた。 もしたった数日しかないとしても、あのセル画を見れば彼女の精神は元気付けられるかもしれない。たとえそれがほんのわずかの間だったとしても。

「いい子、いい子!」ホスピスの彼女の部屋に近づくと、2歳になる孫の金切り声を聞きつけたアンジーがそういうのが聞こえた。彼女にはまだ私たちがわかり、ベト(ロベルト)にあえて嬉しがったが、血中にたまった毒と痛み止めの薬のせいでぼんやりしていた。まるで大きくなりすぎた空の殻の中で魂が迷ってさまよっているかのように、アンジーの瞳は遠くを見ていた。彼女にベトの最新の写真をあげると、いつもは祖母らしい喜びに満ちた反応を見せるアンジーが、ただ無表情に写真を見つめるだけだった。写真をさかさまにし、ひっくり返して後ろを見ると、「眼鏡が必要ね」と抑揚のない声でアンジーは言った。しかし眼鏡をかけてもそれがなんだかわからない風で、アンジーは写真をただ見つめた後、ベッキーに返した。この瞬間、私は自分が時間との競争に負けた事を悟った。

翌日のクリスマスイブに画廊に出向くと、約束どおりキキのセル画は仕上がっていた。「気に入るといいですね」と店員は楽しそうにいった。「気に入ると思うよ」、彼女がホスピスで昏睡状態に陥っている事を言う気にもならず、私はうそをついた。クリスマスの日、アンジーが時折うめき声をあげるほかは反応もなく横たわる部屋で、私たちはプレゼントを開けた。ベッキーと私は額に入ったキキのセル画を見せて、他の家族にアンジーにとってこれがどういう意味があったのかを説明し、ベッドの足元近くの壁にセル画をかけた。次の月曜日、アンジーは在宅ケアを受けるためにホスピスから自宅に戻った。そこで彼女は私たちを認識して、自分がやっと家に戻った事に気づくほどには少し回復したが、それだけだった。アンジーが壁にかかった絵を見つめていたのを数回見たとジェームスは言ったが、彼女の状態と数フィート以上離れたものは認識できなかったという事実から考えて、アンジーにはそれがなにかわかったとは考えられない。

彼女が亡くなったあと、私は絵を壁から取り外し、しまうために持ち帰った。2歳の息子は絵を指差し、「キーキ!」と言って私を驚かせた。「そうだ」と私は言った。「キキだよ。」 そして私はダラスへの旅に備えて額を包み始めた。「バイバイ、キーキ」と息子は悲しそうに言った。

最後の12日間、キキのセル画−アンジーに喜びと慰めを与えることはできないかという私の最後の希望− はベッドの近くの壁にかかっていた。しかし混沌とした状態 の彼女には、それがそこにあることすら分からなかった。完璧な贈り物とは物質的なものではなく、私たちが誰で、お互いに何ができるかという事なのだ、という事を私は再び思い知らされるはめになった。アンジーがこの世界に贈った完璧な贈り物は彼女が人生で関わった子供たち−彼女自身の2人の子供たちと彼女が教えた何千人もの子供たち−だった。私がアンジーに贈る事のできる唯一の本当の完璧な贈り物は、彼女の娘と孫を大切にする事だ。アンジーが私にくれたすべての贈り物にちゃんとお礼を言う機会はなかったが、アンジーは私の気持ちを知っていると信じている。

そして、物質的な贈り物について言えば、キキのセル画はアンジーの思い出のよすがとしてダラスの私たちの家の息子の部屋にかかっている。 そして、M.D.アンダーソン病院では、アンジーを記念して「魔女の宅急便」と「トトロ」のビデオが現在ライブラリに収められている。


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